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私の履歴書

2019.10.01


 その人は数ヶ月前より、いつもよく来ていたゴルフの競技に来なくなった。80歳を超えていた。分け隔てのない人で、気さくで、気取らず、誰にも好かれていた。会社が大きくなったのは義理の息子のおかげやと、いつも感謝し、決して自慢をしなかった。その人が亡くなったと最近聞いた。その人はある大きなクリーニング会社の会長で、満州出身であった。日本が戦争に敗れ、満州から引き揚げてきたが、先に子どもだけが帰ってきた。残された母親はロシア軍が攻めてくることを恐れ、現地で自決した。父親は日本に帰ったが、若くして亡くなった。天涯孤独になったその人は親戚に預けられ、小さい時に、クリーニング店に奉公に出された。どれほど厳しい環境の下で働いたのか分からないが、21歳の昭和30年(1955年)頃、独立した。それからの話は分からない。そんなに早く亡くなるのであれば、もっと聞いておきたかった。しかしそれ以降も劣悪な環境の中でがむしゃらに働いたに違いない。今は立派で、地位も名誉もある立場だったが、私はその先輩に失礼ながら、若い時は本当にご苦労されたのですねと何回か言ったことがある。実際には私が想像する以上に辛酸を嘗め尽くした生活を送ったかもしれない。おしんのヤオハンや赤福の女将の物語はテレビで報道され、ドラマ化されて、世界中で感動を呼び起こしている。運命のいたずらの人もいるかもしれないが、大多数の人は努力と勤勉と忍耐と人に言えないような苦労で勝ち抜いてきた。勿論それだけの覚悟で努力してきても、成功の女神に見放された人もいる。いや、そのほうが多いだろう。成功し、立派になり、生存中は確かに注目を集めたとしても、やがて時代の流れと共に、過去になり、忘れ去られて行く。二代記憶に残ったとして、三代目は過去の栄光は消えているのが普通、というか、そんなに長い期間思い出が残っていると新しい出来事が入る余地がなくなってくる。昔はその家の悪い出来事は三代続くといわれたが、今や直ぐに人々の記憶の外に追いやられる。日経新聞やこんな出来事に触発されたわけでないが、そして又私には何の特筆すべきことがらもなく、まして褒章を受けたわけでもないが、この地の、そして何らかの参考になればと思い、何回かにわたって私の履歴書を書いてみたい。
1944年11月3日、太平洋戦争終戦の1年前の昭和19年、泉北郡美木多村大字上148番地で産婆さんに取り上げられた。私の家の上の147番地(美木多幼稚園の専用駐車場)には、防空壕(今は擁壁で無くなっている)があり、こんな田舎にも米軍のグラマン戦闘機が来たので、何回かそこに逃れたそうだ。父正計(初代理事長)は美木多村役場勤務で、その父正治は終戦前の官選の美木多村の村長であった。しかし戦後は公職を退き、一農民として、田畑を耕作し、ため池を守り、山林の保全に努めた。よく一緒に山に言って、適当な大きさの木を切り、家に持ち帰って、薪にした。ガスも水道もない時代であり、ご飯を炊くにも風呂を沸かすにも、全て薪であった。木を切っているおじいさんに、なぜ切り株に傷をつけるか聞いたことがあった。こうすれば、新しい芽が出て、又大きな木になると言った。その山は今庭代台になっている。この時代の交際範囲は狭かった。祖父と祖母は同じ美木多村の親族同士であった。祖父は村のため、祖母は祖父のために一生懸命であった。昔からだんじりがあった。美多彌神社の境内は今よりもっと下にあった。そして下から上がってきた道は神社で行き止まりであった。だんじりは7台あった。それが美多彌神社に登る道に並んだ。人は老若男女を問わず、私の家だけでなく、近所の家に集まって、食事を楽しみ、秋祭りを祝った。みんな一心同体であった。だんじりが止まった道は祖母にとってはモミを乾燥する最適の場所であった。朝からむしろを何枚も何枚も敷き、その上でモミを乾かした。1日に何回も籾を混ぜ、方向を変えた。夕方には籾を持ち帰った。ちょっとやそっとのモミの量ではなかった。4km以上はなれた別所等の遠い所の小学生は自転車通学をした。そのために家の門は自転車置き場になった。それが当たり前で、何の文句も意見もない鷹揚な時代であった。
いよいよ10月から幼児教育無償化が始まります。いろいろな意見がありますが前向きに取り組んでいきます。消費税も10%になりますが高額耐久商品は別として、大きな混乱は無いといわれています。そして10月1日は私達にとってとても大事な園児募集の日です。私達の今までの努力や成果が試されるときです。少子化と受け皿が多くなってきたことで、ますます保護者の厳しい評価を受けそうですが、どうか私達を信頼していただき、皆さんの温かいご支援、お力添え賜りますよう宜しくお願い致します。 神様全て出雲に行ってしまう神無月、今月も力を合わせて出発です。
尚、運動会にはご家族おそろいでお越しください。お待ちしています。

知る喜び、知らない喜び、知らないでいる喜びと不幸

2019.09.01


 私たちは膨大な情報の中で生きている。昔の人に比べるとその情報量は半端でない。 過去を知り、現在を生き、未来を思う私たち、そして所狭しと世界の端まで飛び交う数え切れないほどの航空機、宇宙から私たちを見つめ、監視している人工衛星群、そこからもたらされる信じられないくらいの情報、アフリカの片隅、南米アマゾン、果ては北極熊の生態まで、国内では昔は無視されていたような、そして知りたくもないような些末なニュースも大きく広がりを見せ、SNSを通じてさらに拡散し、NET難民の餌食にされ、攻撃の対象になってしまう。個人が裸にされ、個人情報保護法は意味を失いつつある。一人一人は善良な一市民であっても、素性が隠されると、牙をむくオオカミになるが、何かの拍子に実態が明かされると、小心者に還っていく。情報過多のこんな社会は果たして幸せだろうか。誰と誰が結婚しようが、離婚しようが、知らない遠い地域で強い風で倒れて軽い傷を負ったとかは私たちの日常生活に関係ないし、出歯亀趣味が私たちに幸福をもたらしてくれない。国内外で日本人が活躍したニュース等はリアルタイムに私たちに届いている。それは現在に住んでいる特典だと思うが、知りたくないニュースをさも仰々しく聞かされると、遠くても10km位のコミュニティーで生活していた昔の人がhappyだと思う。さて、私も70代真ん中、いつもこれが最後の旅と思いながら、航空券とホテルだけを予約して、今年も夏休みを利用して海外に出た。今まで行ったことのない都市が目的地。西ベルリンは東ドイツに高さ3mくらいの強固な壁で取り囲まれていた。その壁の象徴的なブランデンブルグ門は1989年12月の東独政府の崩壊とともに開かれた。しかし未だ西独と東独市民の間には意識の差があると報じられている。ソ連とアメリカの捕虜交換場所になったクロスポイント・チャーリーを見たかった。しかし今は観光地の一部に過ぎず、普通の街並みであり、映画で見たような感動はなかった。一番感動したのは世界最古のベルリンの動物園、広い敷地、よく整備された樹木の中にあるこの動物園はパンダを始め、様々な動物が住んでいて、ケージの中ではなく、あるがままの自然の中で生活していた。毎日が飛行機の駆け足旅行、エアポートからホテルまでの移動はタクシーに頼ったが、ストックホルムではタクシー乗り場に着くと、タクシードライバー達が手をあげた。どれも正規のタクシーだが、料金が違った。ガイドブックを見て、黄色のタクシーに乗った。降車の時に現金を渡したが釣りがないと言う。これも作戦だろうか。日本を出るとき、成田で5万円をユーロに替えた。しかし使ったのはドイツだけ。スエーデンに行くときに2万円をクローネに替えたが、無意味だった。デンマーク、ノルウエーも含めて、電車の切符、タクシー、レストランやデパートの支払い等は全てカードでOK、それぞれの通貨に替える必要は毛頭なかった。ストックホルムは顕著であったが、公共のトイレ(例えば飛行場)には男性が立って用を足す便器がない。場所によっては男女同じで、女性が出てきた後に男性が入っていった。飛行機で慣れているとは言え、男女平等のトイレは日本で普及するのだろうか。飛行機も男女別々のトイレを考えているのに。コペンハーゲンの人魚の像は予想外に小さかった。陸地近くの岩の上でこちらを向いた像は大方の期待を裏切るものかもしれないが、そこに来たという証になる。実業家が寄贈したこの像はあまり観光資源のないこの町にとっては、名前で有名なチボリ公園と同じくらい貴重な存在なのだろう。食器などが好きな人にとってはロイヤルコペンハーゲンの本拠地、工場や事務棟は高い煙突のある大きな建物であるが、今はほとんど人気がない。端の方でOUTLETの食器などを売っているだけ。実際はほとんど東南アジアで作られている。この北欧三カ国でオスロは一番印象に残った。この町は飛行場から約50km、タクシー代が高かったのでびっくりした。しかしここは静かな落ち着いた王国であり、少し前に銃撃事件があったとは信じられない。女性はほとんどブロンドかプラチナブロンドで、黒髪の人はほとんどいないし貴重な存在。思い出に、縦横無尽に走る地下鉄に乗って、ムンク美術館に行った。朝早いせいかあまり混んでいなかった。よく目にする「叫び」と「マドンナ」を間近で見ることが出来た。やはり良いものは良い。実感であった。昼は港まで歩いて、少しリッチそうなレストランに入った。新鮮な魚介類やロブスターが豊富だった。来るときのタクシー代に懲りて、帰りは列車で飛行場に向かった。地下の駅から乗って空港へ、乗り心地の良い高速列車で20分たらずで到着した。費用もタクシーの六分の一位であった。この三カ国はそれぞれ飛行機で1時間くらい、通貨はそれぞれ異なるが、全てクローネであった。そして気温もよく似ていて、日本が35℃を越えているときに、20℃余りであった。いつまでも好奇心と知識欲をを持ち続けたいと思う。
園児募集のお願い
来年度の園児募集は9月1日より願書配布、10月1日より受付となっています。「三つ子の魂百まで」のまさに正鵠を得たことわざのように、3歳児からの保育の重要性を十分認識し、真摯に幼児教育に取り組んで参ります。そして幼稚園に通園させてよかったと笑顔で言ってもらえるように教職員一同力を合わせて頑張ります。どうぞご近所、お知り合いの方にもお勧めいただきますようお願いいたします。9月、長月、食欲とスポーツの秋、明るい未来を目指して、今月も出発です。

子どもを持つ喜び、子どもを育てる楽しみ

2019.08.01


 先日大阪で就活フェアーがあった。私達を含めて、40法人あまりが参加し、集まった学生は120人くらいであった。因みに私たちの鴨谷学園や諏訪森学園は園長先生や卒業生が直接沢山の保育者養成校を訪問し、又求人票も日本のほとんどの大学に送付し、求人活動もしているのですが、目の前にあるのは卒業予定者一人につき、求人が四人から五人という大きな壁、これを乗り越えていくための一つの手段としての就活フェアーへの参加、そこでは参加者の代表者が一分間スピーチで自園をアピール。最近株式会社の保育業界への参入が激しく、大きな会社では100園以上を運営している。主に運動場もない、遊ぶ場所もない、お部屋での保育活動。一番目にたったのが多数の保育所を日本全国に展開している株式会社の代表者二人。開口一番私達の保育所では東京の初任給が26万円、千葉は27万円、そして大阪はーーーと言葉を濁した。たぶん他の参加者からの批判を意識したのだろう。次に言ったのが有給100%取得、残業0の言葉、単純な疑問に思ったのが、部屋借りであれば設備投資はほとんど0ではないか。初任給は高いが、ボーナスはどうなのか。2~3年でやめることを想定しての給料か、果たして昇給は順調にあるのか。大都会での社会保障や労働環境、高い下宿代、生活費はどうなっているのか。この初任給作戦で地方の養成校の卒業生は押しなべて大都会を目指し、地方では深刻な保育士不足に陥っている。それ以外でも大阪市は家賃100%補助、子どもがいれば、優先的に保育所で預かってもらえる。堺市でも新人の保育士さんに20万円のボーナス。神戸ではその上に USJのパスポート無料配布とか。一番目の人に続き、残り39園の人も一分間スピーチを行いましたが、どの園もさすが初任給を訴える園がなかったのですが、残業がない、連続した休暇や有給休暇の取得、そして人間関係の良さをアピール。養成校に行って、担当者から言われた内容とほぼ同じ。私達の幼稚園は子ども第一です。子ども大好きな先生の集まりです。子どもと共に先生自身も成長していくのが楽しみです。子供の保育、教育活動に従事する幸せ等を訴える園は見事に一園もなし、これでは参加した学生もどの園を選ぶか迷ってしまう。結局は初任給の高さにつられていくのか。昔のことは言うまい。猛烈社員のことは封印したい。しかし資源のない国、日本は生き残るために棄民政策として、戦前は移民を奨励した。日本よりは少しマシだろうと人減らし政策で海外、主に中南米に送られた。劣悪な環境の下で歯を食いしばり、子どもたちに教育をつけ、偏見や差別の強い国で徐々にその地位を高めていった。資源のない日本の資源は優秀な「人」、そんな人が国のため、自分のため、家族の為に一生懸命働き、努力して世界の中の日本を築き上げてきた。なるほど、人は奴隷でないし、自主独立した個体であり、存在する十分な権利を有することは自明のこと、しかし権利ばかりを主張して、義務を怠ると日本の将来はどうなるのだろう。50年位前にアメリカの訴訟社会を見て、日本ではありえないと笑って話し合ったことが今の日本にも着実に押し寄せている。
さて、来年4月からは鳳幼稚園に隣接して、小規模保育園「オオトリ メノール」の開設、19人を預かって、お母さんの働きやすい環境に努めていきます。ご期待ください。
いよいよ夏休み、子どもが家にいることを鬱陶しいと感じている人がいるかもしれませんが、この機会にしかできない経験や体験はどうでしょうか。きっと子供を持つ喜び、幸せを再認識するかもわかりません。この頃、こどもへの虐待が大きな社会問題になっています。今まで秘密のうちに葬られていたことが白日の下にさらけだされ、大きなペナルティーが課されています。子どもの前での夫婦喧嘩さえも虐待だと認識されます。子どもは独立した人格の持ち主であることを再認識されて、子どもと一緒に楽しく過ごす機会になればと思います。そして8月26日の二学期始業式には今以上に元気な姿で子どもたちは幼稚園に帰ってくることを待ち望んでいます。今年の夏休みは、消費税10%を控えて、節約志向で過ごすことを一つの目標に掲げたらどうでしょうか。例えば、旅に出たとしても、節約交通機関、節約ルート、節約宿泊、等々、その代わり体を余計に動かして、汗をたくさんかくかもわかりませんがそれも節約、節約の汗、「もったいない」を復活させても悪くないのではと信じています。

幼児教育の無償化について

2019.07.01


6月18日午前7時過ぎ、生まれ育った南区の自宅を出発、泉北高速鉄道「光明池」に向かった。40年から50年にかけて、泉北ニュータウンの発展と共にこの鉄道は整備されてきたが、それまでは最寄りの駅は国鉄阪和線の鳳駅(家から約7㎞)だった。高校も大学もこの駅にお世話になった。しかし、車の発達と共にほとんど電車に乗らなくなった。何年、天王寺に行ってないのであろう。何年、泉北高速鉄道に乗っていないのだろう。鉄道利用はこの程度だった。せっかくの便利な交通機関を上手く利用していない。新大阪駅までは中百舌鳥で乗り換えて行く予定であったが、それよりも絶対この方法の方がいいと教えられたのが、新今宮8時22分発乗り換えで、大阪駅8時40分着。ここで乗り換えて1駅、新大阪駅8時51分着であった。しかし、実際乗ってみると、果たしてこの方法がいいのか、ある意味、納得できなかった。新幹線の切符を買って、乗り込んだ東京行きのぞみ118号9時20分発、横に誰もいないので、ゆっくりしようと思っていたのに、名古屋から老夫婦が隣の席、それにしても久しぶりの新幹線は速い。昭和38年(1963年)に東京の大学を受験したときに「早い、早い」と言って乗った特急が6時間余り、私たちの知らないところで、名もない多数の技術者たちが切磋琢磨して安全安心の技術を磨いてきたのであろう。無事、東京駅に11時23分に到着した。そこから、電車を乗り換えて市ヶ谷に12時27分に着いた。市ヶ谷と言えば、防衛省のあるところ、ここにTKP市ヶ谷カンファレンスセンターという貸し会議室があり、今日の舞台だ。大阪に比べて東京はやはり人が多い。人口増になっているのが東京だけ、日本の若者をどんどん吸い上げていく魔の都市と言っても不思議ではない。この会場には、日本全国から600名以上が詰めかけていた。希望者だけだが、大阪から何人参加したのかわからない。希望者が多かったので、東京の人は別日に回ってもらったそうだ。13時から17時まで途中15分の休憩を挟んでみっちりの4時間であった。無償化の道筋を作った文科省の役人に説明を聞きたかった。まず始めに私も何回も園便りで書いたアメリカのヘックマン博士の幼児教育に投資するのがどれほど効果的であるかの具体例があった。そしてまた、日本が生き残るための理想の子どもの数は2.32人だが、実際に生まれたこども数は1.94人であり、これは子育てや教育にお金がかかりすぎる56.3%、高年齢で産むのは嫌だ39.8%、欲しいけれどもできない23.5%であった。昨年6月に経済財政運営の基本方針が示され、高齢化対策よりも幼児教育に軸足が移された。「人づくり革命」では第一に幼児教育無償化を一気に加速する、すなわち3歳から5歳までのすべての子ども達の幼稚園、保育所、認定こども園の費用の無償化が謳われた。0から2歳児については、住民税非課税所帯を対象として無償化がすすめられることになった。《対象者、対象範囲等》①3~5歳・・・幼稚園、保育所、認定こども園などの保育料無償化。新制度の対象とならない幼稚園(美木多・鳳幼稚園)については、月額上限2.57万円まで無償化。②開始年齢・・・小学校就学前の3年間を無償化。③・・・保護者から実費で徴収している費用(通園バス・給食費・行事費等)は無償化の対象外。給食費については保護者が負担する考え方を維持し、幼稚園による実費徴収を基本とする。
幼稚園の預り保育・保育の必要性の認定。新2号認定(例えば両親が働いている場合)
まとめ(幼稚園・認定こども園関係)
①満3歳児(認定こども園2号は3歳児~)は卒園までは保育料無償化。美木多幼稚園、鳳幼稚園は2.57万円/月まで。食材料費・通園送迎費・上乗せ徴収などは保護者負担。
②保育の必要性のある子どもについて預かり保育の無償化。(利用日数に応じて1,13万円/月まで)
③諏訪森幼稚園の保育料は利用者負担分に相当する施設型給付の増額+不徴収により対応。美木多幼稚園・鳳幼稚園の保育料・預かり保育の無償化については子ども子育て支援制度に無償化のための新たな給付を創設。
④新たな給付は
1、対象施設は対象施設の確認を受けた施設
2、支給認定を受けた子どもが利用した場合
3、保護者の申請を受けて市町村が給付する
(追記)預かり保育は1日450円支給。そのために50円/日の負担となる。
幼稚園の事務量が大きなものになり、まだまだ紆余曲折があると思います。市町村の対応などが未知なところもあるので、詳しい保育料なども含めて、決まり次第、説明会を開きたいと思います。

私達に残せるもの

2019.06.01


 一人の年老いた職人が握っている小さな堺の寿司屋さん、そんなに商売が繁盛しているわけでないが、それなりに精一杯ネタを揃えて意地を見せている。齢70歳あまり、山口県出身のすし屋のオヤジだ。私がアナゴの握りを注文したときにそのオヤジが言った言葉、「アナゴは触った瞬間、いいアナゴかどうか分かる。アナゴは大阪湾や堺沖でたくさん獲れるのに、いいアナゴは京都や大阪の高級料亭に直ぐに高値で出荷されて、わしらのところには地元なのにいいアナゴはまわってこない。たまにいいアナゴがあったりすると、何か儲けた気がする。」と。京料理は美味しいとか、大阪の高級料亭はミシュランの星に輝いて、素晴らしいとか言われているが、料理は所詮食材が80%以上(私の独断)、腕前に頼る部分はわずか10%あまり、日本航空の機内食で仰々しく有名シェフの作った料理が出てくるが、宣伝ほど、美味しくはない。反対に安い店でも食材が立派であれば、美味しい一流の料理が作れないわけがない。今は前ほど頻繁に行かないが、河内長野の蕎麦屋さんとは40年以上前からの知り合い。店はそんなにきれいでないし、実際見た目を重視する今頃の若い人には敬遠されそうな雰囲気、しかし私はここの蕎麦が好きだ。ぞんざいな作り方のように見えるが、出汁もそばも美味しい。なにがそうさせるのか?それは甲府を出て、東京経由で河内長野にたどり着き、蕎麦一筋に半世紀、実直に努力してきたせいかもしれない。「屏風と食べ物屋は拡げたら倒れる」という言い伝えを守っているかどうか知らないが、店の風格、たたずまいは昔と変わらない。同じように河内長野の小さな中華料理店も半世紀前から知っている。ここはご夫婦で切り盛りしているそれこそパパ・ママ料理店、しかしラーメン、焼き飯、餃子など等、味は昔のままだ。昭和、平成、令和 の時代を超えて生き永らえたのは地域の人やファンの人もあるが、料理する人の生真面目さ、実直さ、そして美味しいものを作って人に喜んでもらいたいというサービス精神、上から目線でないが、そんなものがあると思う。つい最近読んだ記事の中に、俳優の世界にもこんなことがあるのかと思った。里見浩太朗さんは舞台で元気に立ち回りをしている83歳と思えない元気さだ。リーガルハイや警視総監では渋い演技を披露している。しかし他の有名役者のようにバックや支持者があったわけでない。又主役を張ったりしていないし、脇役に徹していた。過去に何かとハプニングあったにせよ、長く真面目に役者の仕事に取り組んできた。そのせいばかりとは言えないが、浮き沈みの多いこの世界で有頂天にならずに生き延び、今も活躍している。彼の最近言ったチクリの言葉「ゴルフよりも舞台のほうが面白い」。最近、スタートアップ企業が何かと話題になっている。群れを嫌って企業から、仲間から離れて、あるいは助けられて、会社を創設する。国も、社会も、そして大企業までもがそれを後押ししている。一度失敗しても、再挑戦の機会を与えている。そんな人を意欲的と考えるか、野心的、好奇心に富んだ人と考えるか、あるいはリッチを夢見て挑戦する人と考えるか?群れの中にいる人よりも優れていると思わないし、どちらも同じように功罪があるかもしれない。しかし10%にも満たないスタートアップの企業の成功者になって大金持ちになったらどうだろうか?最近どの分野でも、少し上手くいけば、その企業を売り飛ばしてお金を稼ぐ人がいるが、そんな人の会社に対する、働く仲間に対する、愛情とはどのようなものだろうか。若くして成功し、資産を形成し、その先何十年、どういう暮らしをするのだろうか。上手くいくのだろうか。何もその年代にふさわしい成功者としての生き方を賞賛しているわけでないが、本当に成功者として称えられることを望むのであれば、この世に生きた痕跡を残したらと思う。人はいつか死ぬ。免れることはできない。何を残せるだろうか。名前を残したい人は学校に寄付をして、何とか記念館を建てることも、名前を残したくない人は無名で多額の寄付をする。財団を作って後進を育てる人もいるし、芸術家は、例えば江戸時代の伊藤若冲のように、その芸術作品をこの世に残せるし、思想や経済理論を残せる人もいるだろう。私達大多数はそれでは何を残せばいいのだろうか。只一つ言える事は私達が受け継いだ美しいこの日本、この地球をこれ以上穢れることのないようにして、次世代へ引き継いでいくことだろう。いくら金持ちが立派な建築物を寄付したからと言っても、せいぜい100年、仁徳天皇陵や履中天皇陵の前方後円墳の歴史に及ばないし、それも、これからの何千年、何万年の歴史の中ではいつまで存続するか分からない。今を一生懸命生きる次世代のエース、子ども達に、マクロ、ミクロ、両方の面でも大きな期待をしたい。
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