Arrogance kills
2024.10.31
Arrogance kills
9月になったとはいえ、まだまだ30度を超えるような気温が続いた日本の秋、そんな中、時間を限定し、水分補給をこまめに行い、担任や体育指導の先生方が考え、構成した運動会の演目を汗を流しながらの必死の練習です。本番さながらの予行演習も行いました。懸命な努力、必死な姿の先生と子どもたち、努力は裏切ることはなかった。運動会本番での子どもたちのやり切った顔、満足そうな姿、ひたむきに演じる子どもたち、私たち大人は何物にも代えがたい大きな喜びを感じ、成長した子どもたちの姿を再認識したのではないでしょうか。やらされたり、強制されたものでない、内からほとばしるような、満足そうな顔の表情や笑顔、誰もその感動を否定できません。作り物でない、内から出た演技、競技は本当の本物です。
保護者の皆さんの大きな声援に励まされて、子どもたちも大きな達成感を得たものと信じています。一つ一つの大きな山を乗り越えて、確実に大きく成長する軌道を進んでいます。成績だけの認知能力だけでなく、誠実に立派に楽しく人生の道を歩む一つの指標の非認知能力も確実に身につけてきました。幼稚園生活を立派に送ることはすなわち良い人生を得ることができる事にもつながっています。これからが楽しみな子どもたち、同時に今後の日本を支える重要な構成員でもあります。
青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気に満ちて、日々新たな活動を続ける限り、青春は永遠にその人のものだ。又ある人は70歳であろうと16歳であろうと、驚異に惹かれる心、幼子のような未知への探求心や人生への興味の歓喜がある限りその人は青春だ。
We are only young once. 若い時は一度しかない。というようにyoung は一般的に若い人を指すことが多いのだが、先日89歳、85歳、84歳の人と一緒になった時、言語的にはold であり、elder であるのだが、私は youngest だと言われた。そんな使い方もあるのかと感心したのだが、人が集まると、昔は一番若かったのだが、だんだん真ん中になり、今ではほとんどの場合年長になっている。高校の担任をしている時に、最初はほとんどの保護者が年配であったが、いつのまにか保護者と同じ年齢になり、そして保護者が後輩になっていった。その時はyoungestと言われたが、誰も年齢を感じさせない溌溂さにも驚かされた。人が意欲を持っている限り、希望を持っている限り、その人は青春だと思う。
さて、私はめったに電車に乗らないし、道路を長く歩くことはない。しかしこの間やむなく歩道のない狭い市道を歩くことを余儀なくされた。いつもは何とも思わない道が歩行者の立場になると、歩くのが怖いくらい恐怖に感じた。車が凶器に思えた。歩くスピードと横を走る車の速さの違い、一瞬のハンドルさばきのミスが歩行者に打撃を与えてしまう。歩道のないことは勿論問題だが、時には逆の立場になってみるのも必要だと強く思った。普段何気なく見ていることが、それが普通でなく、危険な状態であることを改めて思い知らされた。
さて、人には様々な人生訓があり、それは国や町やビジネス界の規範になっている。この間、日経新聞の「私の履歴書」で見かけた記事が気になった。それは洋の東西を問わず、成功する、あるいは成功した人の不可欠な処世訓だろう。アメリカの投資ファンドKKRの会長の座右の銘は「arrogance kills」であった。これは日本にある諺「実るほど頭が下がる稲穂かな」と全く同じ意味、すなわち傲慢になる事を戒めたものだった。
ある人は幸せな人生を送るためにはどうすべきかと問われ、「正直に生きるという一点に尽きます。人をだましたり、うそをついたり、人生において、自分の利益しか考えられないような人は表情を見ればわかる。その人が歩いた生き方は顔に出るんです」と答えた。正直に生きる、それがお天道様に恥じない生き方なのです。そしていただいたご縁を大切に、誠心誠意尽くしていけば、信頼の輪は着実に広がっていく。又人の死はいつ訪れるかわからないので、だから今日一日でやり残したことがないよう日々悔いなく生きることの大切さを述べている。
「実るほど頭が下がる稲穂かな」は学問でも、技能、財産、地位でも、持てば持つほど謙虚になる事だが、言うのはたやすいが、ある程度物を持ち、教育を受けた人が実行するのは少し厳しいかもしれない。しかしそれに向けて、一層謙虚に素直になり、感謝の気持ちを持つことが必要なのです。とその人は述べている。
出雲から神々が各地に帰ってきました。11月、霜月、文化かおる月、そして又働く人への感謝の月、今月も皆様方にとっては素晴らしい月になります様にご健康、ご多幸を祈念しています。秋の夜長のつれづれに少し長々と書いてしまいました。
Arrogance kills
9月になったとはいえ、まだまだ30度を超えるような気温が続いた日本の秋、そんな中、時間を限定し、水分補給をこまめに行い、担任や体育指導の先生方が考え、構成した運動会の演目を汗を流しながらの必死の練習です。本番さながらの予行演習も行いました。懸命な努力、必死な姿の先生と子どもたち、努力は裏切ることはなかった。運動会本番での子どもたちのやり切った顔、満足そうな姿、ひたむきに演じる子どもたち、私たち大人は何物にも代えがたい大きな喜びを感じ、成長した子どもたちの姿を再認識したのではないでしょうか。やらされたり、強制されたものでない、内からほとばしるような、満足そうな顔の表情や笑顔、誰もその感動を否定できません。作り物でない、内から出た演技、競技は本当の本物です。
保護者の皆さんの大きな声援に励まされて、子どもたちも大きな達成感を得たものと信じています。一つ一つの大きな山を乗り越えて、確実に大きく成長する軌道を進んでいます。成績だけの認知能力だけでなく、誠実に立派に楽しく人生の道を歩む一つの指標の非認知能力も確実に身につけてきました。幼稚園生活を立派に送ることはすなわち良い人生を得ることができる事にもつながっています。これからが楽しみな子どもたち、同時に今後の日本を支える重要な構成員でもあります。
青春とは心の若さである。信念と希望にあふれ、勇気に満ちて、日々新たな活動を続ける限り、青春は永遠にその人のものだ。又ある人は70歳であろうと16歳であろうと、驚異に惹かれる心、幼子のような未知への探求心や人生への興味の歓喜がある限りその人は青春だ。
We are only young once. 若い時は一度しかない。というようにyoung は一般的に若い人を指すことが多いのだが、先日89歳、85歳、84歳の人と一緒になった時、言語的にはold であり、elder であるのだが、私は youngest だと言われた。そんな使い方もあるのかと感心したのだが、人が集まると、昔は一番若かったのだが、だんだん真ん中になり、今ではほとんどの場合年長になっている。高校の担任をしている時に、最初はほとんどの保護者が年配であったが、いつのまにか保護者と同じ年齢になり、そして保護者が後輩になっていった。その時はyoungestと言われたが、誰も年齢を感じさせない溌溂さにも驚かされた。人が意欲を持っている限り、希望を持っている限り、その人は青春だと思う。
さて、私はめったに電車に乗らないし、道路を長く歩くことはない。しかしこの間やむなく歩道のない狭い市道を歩くことを余儀なくされた。いつもは何とも思わない道が歩行者の立場になると、歩くのが怖いくらい恐怖に感じた。車が凶器に思えた。歩くスピードと横を走る車の速さの違い、一瞬のハンドルさばきのミスが歩行者に打撃を与えてしまう。歩道のないことは勿論問題だが、時には逆の立場になってみるのも必要だと強く思った。普段何気なく見ていることが、それが普通でなく、危険な状態であることを改めて思い知らされた。
さて、人には様々な人生訓があり、それは国や町やビジネス界の規範になっている。この間、日経新聞の「私の履歴書」で見かけた記事が気になった。それは洋の東西を問わず、成功する、あるいは成功した人の不可欠な処世訓だろう。アメリカの投資ファンドKKRの会長の座右の銘は「arrogance kills」であった。これは日本にある諺「実るほど頭が下がる稲穂かな」と全く同じ意味、すなわち傲慢になる事を戒めたものだった。
ある人は幸せな人生を送るためにはどうすべきかと問われ、「正直に生きるという一点に尽きます。人をだましたり、うそをついたり、人生において、自分の利益しか考えられないような人は表情を見ればわかる。その人が歩いた生き方は顔に出るんです」と答えた。正直に生きる、それがお天道様に恥じない生き方なのです。そしていただいたご縁を大切に、誠心誠意尽くしていけば、信頼の輪は着実に広がっていく。又人の死はいつ訪れるかわからないので、だから今日一日でやり残したことがないよう日々悔いなく生きることの大切さを述べている。
「実るほど頭が下がる稲穂かな」は学問でも、技能、財産、地位でも、持てば持つほど謙虚になる事だが、言うのはたやすいが、ある程度物を持ち、教育を受けた人が実行するのは少し厳しいかもしれない。しかしそれに向けて、一層謙虚に素直になり、感謝の気持ちを持つことが必要なのです。とその人は述べている。
出雲から神々が各地に帰ってきました。11月、霜月、文化かおる月、そして又働く人への感謝の月、今月も皆様方にとっては素晴らしい月になります様にご健康、ご多幸を祈念しています。秋の夜長のつれづれに少し長々と書いてしまいました。
11月 体操の先生と遊ぼう!のお知らせ
2024.10.29
11月 体操の先生と遊ぼう!のお知らせ
諏訪森幼稚園にて開催予定の11月『体操の先生と一緒に遊ぼう!』の参加申し込み受付をメールフォームにて開始いたしました。
下記に各詳細を記載しますので、是非お友だちをお誘い合わせの上、ご参加お待ちしております♬
(※各イベント締切日・詳細等必ずお守りいただきますようご確認ください※
●体操の先生と一緒に遊ぼう!●
日時:令和6年 11月19日(火)
時間:10:00~11:00
場所:認定こども園 諏訪森幼稚園 遊戯室内
対象:未就学児のお子様
持ち物:上履き、下靴を入れる袋、お茶
(※お子様の着替え、オムツ等必要な場合は各自お持ちください。)
締切日:11月12日(火) 18:30まで(原則締切後は受付できません)
諏訪森幼稚園の正課体操の先生と一緒に身体を動かして遊びませんか?
未就学児のお子様皆が楽しめるプログラムを考えていますので、是非来てくださいね☆
お申込み方法や詳しい内容はこちらからご確認ください。
(トップページの『各種書類』の欄からもご確認いただけます)
諏訪森幼稚園にて開催予定の11月『体操の先生と一緒に遊ぼう!』の参加申し込み受付をメールフォームにて開始いたしました。
下記に各詳細を記載しますので、是非お友だちをお誘い合わせの上、ご参加お待ちしております♬
(※各イベント締切日・詳細等必ずお守りいただきますようご確認ください※
●体操の先生と一緒に遊ぼう!●
日時:令和6年 11月19日(火)
時間:10:00~11:00
場所:認定こども園 諏訪森幼稚園 遊戯室内
対象:未就学児のお子様
持ち物:上履き、下靴を入れる袋、お茶
(※お子様の着替え、オムツ等必要な場合は各自お持ちください。)
締切日:11月12日(火) 18:30まで(原則締切後は受付できません)
諏訪森幼稚園の正課体操の先生と一緒に身体を動かして遊びませんか?
未就学児のお子様皆が楽しめるプログラムを考えていますので、是非来てくださいね☆
お申込み方法や詳しい内容はこちらからご確認ください。
(トップページの『各種書類』の欄からもご確認いただけます)
★(重要)11月・3月の子育て遊びの広場について★
2024.10.23
お知らせ
平素は本園の保育・教育にご理解・ご協力いただきましてありがとうございます。「令和5年度 園庭開放・あそびの広場」の年間計画でお知らせしていた11月9日(土)の作品展・3月1日(土)のふれあい広場の日ですが、当日の在園児・保護者の方を合わせた来場者数が非常に多いことが予測されますので、地域の方のご参加は見合わせる事となりました。大変申し訳ありませんが、ご理解、ご協力の程よろしくお願いします。
認定こども園 諏訪森幼稚園 園長 島﨑 幸司
お知らせ
平素は本園の保育・教育にご理解・ご協力いただきましてありがとうございます。「令和5年度 園庭開放・あそびの広場」の年間計画でお知らせしていた11月9日(土)の作品展・3月1日(土)のふれあい広場の日ですが、当日の在園児・保護者の方を合わせた来場者数が非常に多いことが予測されますので、地域の方のご参加は見合わせる事となりました。大変申し訳ありませんが、ご理解、ご協力の程よろしくお願いします。
認定こども園 諏訪森幼稚園 園長 島﨑 幸司
令和7年度 未就園児親子登園(マリポサクラス)募集のお知らせ
2024.10.01
令和7年度 認定こども園 諏訪森幼稚園『未就園児親子登園(マリポサクラス)』の募集のお知らせを掲載いたしました!
★お申込み受付について★
対象:2歳児:令和4年4月2日 ~令和5年4月1日 生まれの幼児と保護者の方
日時:令和6年 11月7日(木) 10:00~
場所:諏訪森幼稚園 園内
当日お持ちいただくもの:上履き・下靴を入れる袋・前期申込書・入会金3000円
詳しくはこちらからご確認いただけます。
また、トップページの『各種書類』の『令和7年度 未就園児親子登園募集』からもご覧いただけます。前期申込書はそちらを印刷・ダウンロードいただきますようお願いします。
お友だちをお誘いあわせの上、是非お越しください!
認定こども園 諏訪森幼稚園
★お申込み受付について★
対象:2歳児:令和4年4月2日 ~令和5年4月1日 生まれの幼児と保護者の方
日時:令和6年 11月7日(木) 10:00~
場所:諏訪森幼稚園 園内
当日お持ちいただくもの:上履き・下靴を入れる袋・前期申込書・入会金3000円
詳しくはこちらからご確認いただけます。
また、トップページの『各種書類』の『令和7年度 未就園児親子登園募集』からもご覧いただけます。前期申込書はそちらを印刷・ダウンロードいただきますようお願いします。
お友だちをお誘いあわせの上、是非お越しください!
認定こども園 諏訪森幼稚園
激動の20代
2024.10.01
激動の20代
もう戦前を超えたとか凌駕したという言葉を何回聞いただろうか。朝鮮戦争の特需でそれまで打ちひしがれていた日本の経済は飛躍的に発展への道を歩み始めた。池田首相の「貧乏人は麦を食え」は当時としては当たり前のことを言っただけだが、白米にあこがれる消費者に忖度するマスコミが貧しい人々を侮蔑する言葉として取り上げた。実際、戦前まで、例えコメ作りの農家であっても、かなりの農家が米を食べていなかった。供出米として政府に差し出し、年貢米として地主に米を引き渡すことで、手元に残るコメは少なかった。年に数回のお祭りや祝い事の時に白米を食べただけであった。麦ごはんが主流を占めた。私自身も農家の出であるが、祖父が麦を作り、それを米に入れて食べることがあった。
池田首相は所得の高い人は米を、低い人は麦を食べると言う当たり前のことを言っただけであった。池田首相の所得倍増計画や日本人の勤勉さと相まって、国力が大幅に伸びた。輸出にもドライブがかかり、商社マンや会社員が世界狭しと日本製品を売りまわった。又戦前の「安かろう、悪かろう」の欧米人の日本商品に対するイメージを払拭するために、デミング賞等を筆頭に品質管理にも力を入れ、大きな成功をおさめ、世界中から求められるようになった。それと軌を一にして、驕れる日本人が話題になったのもこの頃である。
今はコンピューターからAIへの大きな科学の進歩が言われているが、私の20代も留まることのない大きな変化の波に翻弄された。1963年(19才)、初めての衛星放送がアメリカから中継された。しかしそれがあまりにも悲劇的なケネディ大統領の暗殺のニュースであった。日本国民誰もが暗澹たる気持ちになった。同じ年、名神高速道路が尼崎―栗東間で一部開通した。ドライブした友人が「やはり外車が違うわ」と言った言葉が印象的であった。その時日本人で車を持つ人は本当に少なかった。豊中で乗って栗東で降り、琵琶湖大橋を渡って帰ってくるのがお決まりのデートコースになった。次の年になると、新幹線が開通した。それまで東京までは8時間、それが3時間30分になった。誰も用事もないのに新幹線に乗りたがった。京都や名古屋までが定番になった。そしてこの年東京オリンピックが開催され、私と同じ年齢の広島の被ばく青年が最終ランナーとなって、長い階段を駆け上って聖火台に火をつけた。
同じ頃、紆余曲折があった名阪国道も無料の一般国道25号として、時の河野一郎運輸大臣のもと、1000日道路として開通した。今や名古屋と大阪を結ぶ重要なインフラとしてその役割を果たしている。そして1969(25才)年アメリカNASAのアポロ11号で人類が初めて月に降り立った。これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。That’s one small step for a man, one giantleap for mankind. 3人の宇宙飛行士が持ち帰った月の石は大阪万博に展示された。この時私は日本にいなかった。日本から遠く離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでスペイン語で書かれたこの言葉を新聞で読んでいた。同じ頃、空前のブームになったライアン・オニールとアン・マックグロー主演の映画「Love Story, ある愛の詩」とその主題歌に大きな感動と感銘を受けていた。愛とは決して後悔しないこと。Love means never having to say you are sorry.余談だが、当時ブエノスアイレスではミニスカートが流行っていた。白人(アルゼンチンはほとんど白人)の女性がそのプロポーションのとれた体に着けたミニスカートは私には何か異質の世界に紛れ込んだようだった。しかしそれもわずか3か月ですっかり慣れてしまった。そして最後は1970年の大阪万博であった。残念ながら日本にいなかったので、人から伝え聞いただけであった。私の家族や知人、そして日本に行って帰ってきたアルゼンチン人の誰からも興奮をもって伝えられた。
10代から20代半ばまでの多感な青春時代、あまりにも大きな出来事の数々であった。どれ一つ取り上げても大きなストーリーができる豊かな内容であった。日本の輸出ドライブは続いていた。私も会社員の一員として、各国を回って商品説明をし、日本に来た外国人に日本の良さ、優れた日本の製品を紹介した。ドル不足に悩む日本では官民一体になって日本の盛り上げを図り、ドルを買って海外に行く旅行者に厳しかったが、外国から帰ってきた会社員は税関フリーパスの優遇措置を受けたこともあった。
当時日本人はよく働いた。働き方が猛烈であった。それが何の苦にもならなかった。それが当たり前であった。誰もが何もない日本が生き延び、世界に認められるのは品質の優れた商品と日本人の勤勉さであった。それが豊かになる道であった。そう誰もが信じていた。今の働き方改革を見、日本の国力が2位から30位以下に落ちている現状を考えれば、戦後の発展の礎を築いてきた今は亡き人々はどう思うのだろうか。今は今、今は昔と違うと言ってしまえばそれまでだが、日本人が受け継いできた、世界に称賛された、精神的支柱までも失うことになれば、昔の日本人が営々と築き、作り上げてきた遺物や遺産で外国の観光客を呼び集めている現状をどう思うだろうか。
幼稚園の子どもたちが暮らす日本、彼らの青春時代はどんなものが待ち受けているだろうか。空飛ぶタクシー、リニア新幹線の開通や北陸新幹線の京都延伸、AI導入による失業率のアップ、出生数50万人を切るますますの少子化、外国人労働者の取り合い、人種問題の勃発、現金がなくなり、超音速旅客機の開発などによって世界はますます狭くなってくる。国境はあまり意味をなさないが、宗教的対立や人種間の争いも頻発するだろう。逆に考えれば、狭い偏狭ナショナリズムを捨ててしまえば、収まる可能性もあるが、誰もがアイデンティティの確立を求める今、対立は一朝一夕に解決するものではない。
10月、運動会があります。子どもたちは今一生懸命練習に励んでいます。どうぞご家族そろってのご来園お待ちしています。
もう戦前を超えたとか凌駕したという言葉を何回聞いただろうか。朝鮮戦争の特需でそれまで打ちひしがれていた日本の経済は飛躍的に発展への道を歩み始めた。池田首相の「貧乏人は麦を食え」は当時としては当たり前のことを言っただけだが、白米にあこがれる消費者に忖度するマスコミが貧しい人々を侮蔑する言葉として取り上げた。実際、戦前まで、例えコメ作りの農家であっても、かなりの農家が米を食べていなかった。供出米として政府に差し出し、年貢米として地主に米を引き渡すことで、手元に残るコメは少なかった。年に数回のお祭りや祝い事の時に白米を食べただけであった。麦ごはんが主流を占めた。私自身も農家の出であるが、祖父が麦を作り、それを米に入れて食べることがあった。
池田首相は所得の高い人は米を、低い人は麦を食べると言う当たり前のことを言っただけであった。池田首相の所得倍増計画や日本人の勤勉さと相まって、国力が大幅に伸びた。輸出にもドライブがかかり、商社マンや会社員が世界狭しと日本製品を売りまわった。又戦前の「安かろう、悪かろう」の欧米人の日本商品に対するイメージを払拭するために、デミング賞等を筆頭に品質管理にも力を入れ、大きな成功をおさめ、世界中から求められるようになった。それと軌を一にして、驕れる日本人が話題になったのもこの頃である。
今はコンピューターからAIへの大きな科学の進歩が言われているが、私の20代も留まることのない大きな変化の波に翻弄された。1963年(19才)、初めての衛星放送がアメリカから中継された。しかしそれがあまりにも悲劇的なケネディ大統領の暗殺のニュースであった。日本国民誰もが暗澹たる気持ちになった。同じ年、名神高速道路が尼崎―栗東間で一部開通した。ドライブした友人が「やはり外車が違うわ」と言った言葉が印象的であった。その時日本人で車を持つ人は本当に少なかった。豊中で乗って栗東で降り、琵琶湖大橋を渡って帰ってくるのがお決まりのデートコースになった。次の年になると、新幹線が開通した。それまで東京までは8時間、それが3時間30分になった。誰も用事もないのに新幹線に乗りたがった。京都や名古屋までが定番になった。そしてこの年東京オリンピックが開催され、私と同じ年齢の広島の被ばく青年が最終ランナーとなって、長い階段を駆け上って聖火台に火をつけた。
同じ頃、紆余曲折があった名阪国道も無料の一般国道25号として、時の河野一郎運輸大臣のもと、1000日道路として開通した。今や名古屋と大阪を結ぶ重要なインフラとしてその役割を果たしている。そして1969(25才)年アメリカNASAのアポロ11号で人類が初めて月に降り立った。これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。That’s one small step for a man, one giantleap for mankind. 3人の宇宙飛行士が持ち帰った月の石は大阪万博に展示された。この時私は日本にいなかった。日本から遠く離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでスペイン語で書かれたこの言葉を新聞で読んでいた。同じ頃、空前のブームになったライアン・オニールとアン・マックグロー主演の映画「Love Story, ある愛の詩」とその主題歌に大きな感動と感銘を受けていた。愛とは決して後悔しないこと。Love means never having to say you are sorry.余談だが、当時ブエノスアイレスではミニスカートが流行っていた。白人(アルゼンチンはほとんど白人)の女性がそのプロポーションのとれた体に着けたミニスカートは私には何か異質の世界に紛れ込んだようだった。しかしそれもわずか3か月ですっかり慣れてしまった。そして最後は1970年の大阪万博であった。残念ながら日本にいなかったので、人から伝え聞いただけであった。私の家族や知人、そして日本に行って帰ってきたアルゼンチン人の誰からも興奮をもって伝えられた。
10代から20代半ばまでの多感な青春時代、あまりにも大きな出来事の数々であった。どれ一つ取り上げても大きなストーリーができる豊かな内容であった。日本の輸出ドライブは続いていた。私も会社員の一員として、各国を回って商品説明をし、日本に来た外国人に日本の良さ、優れた日本の製品を紹介した。ドル不足に悩む日本では官民一体になって日本の盛り上げを図り、ドルを買って海外に行く旅行者に厳しかったが、外国から帰ってきた会社員は税関フリーパスの優遇措置を受けたこともあった。
当時日本人はよく働いた。働き方が猛烈であった。それが何の苦にもならなかった。それが当たり前であった。誰もが何もない日本が生き延び、世界に認められるのは品質の優れた商品と日本人の勤勉さであった。それが豊かになる道であった。そう誰もが信じていた。今の働き方改革を見、日本の国力が2位から30位以下に落ちている現状を考えれば、戦後の発展の礎を築いてきた今は亡き人々はどう思うのだろうか。今は今、今は昔と違うと言ってしまえばそれまでだが、日本人が受け継いできた、世界に称賛された、精神的支柱までも失うことになれば、昔の日本人が営々と築き、作り上げてきた遺物や遺産で外国の観光客を呼び集めている現状をどう思うだろうか。
幼稚園の子どもたちが暮らす日本、彼らの青春時代はどんなものが待ち受けているだろうか。空飛ぶタクシー、リニア新幹線の開通や北陸新幹線の京都延伸、AI導入による失業率のアップ、出生数50万人を切るますますの少子化、外国人労働者の取り合い、人種問題の勃発、現金がなくなり、超音速旅客機の開発などによって世界はますます狭くなってくる。国境はあまり意味をなさないが、宗教的対立や人種間の争いも頻発するだろう。逆に考えれば、狭い偏狭ナショナリズムを捨ててしまえば、収まる可能性もあるが、誰もがアイデンティティの確立を求める今、対立は一朝一夕に解決するものではない。
10月、運動会があります。子どもたちは今一生懸命練習に励んでいます。どうぞご家族そろってのご来園お待ちしています。