激動の20代
2024.10.01
激動の20代
もう戦前を超えたとか凌駕したという言葉を何回聞いただろうか。朝鮮戦争の特需でそれまで打ちひしがれていた日本の経済は飛躍的に発展への道を歩み始めた。池田首相の「貧乏人は麦を食え」は当時としては当たり前のことを言っただけだが、白米にあこがれる消費者に忖度するマスコミが貧しい人々を侮蔑する言葉として取り上げた。実際、戦前まで、例えコメ作りの農家であっても、かなりの農家が米を食べていなかった。供出米として政府に差し出し、年貢米として地主に米を引き渡すことで、手元に残るコメは少なかった。年に数回のお祭りや祝い事の時に白米を食べただけであった。麦ごはんが主流を占めた。私自身も農家の出であるが、祖父が麦を作り、それを米に入れて食べることがあった。
池田首相は所得の高い人は米を、低い人は麦を食べると言う当たり前のことを言っただけであった。池田首相の所得倍増計画や日本人の勤勉さと相まって、国力が大幅に伸びた。輸出にもドライブがかかり、商社マンや会社員が世界狭しと日本製品を売りまわった。又戦前の「安かろう、悪かろう」の欧米人の日本商品に対するイメージを払拭するために、デミング賞等を筆頭に品質管理にも力を入れ、大きな成功をおさめ、世界中から求められるようになった。それと軌を一にして、驕れる日本人が話題になったのもこの頃である。
今はコンピューターからAIへの大きな科学の進歩が言われているが、私の20代も留まることのない大きな変化の波に翻弄された。1963年(19才)、初めての衛星放送がアメリカから中継された。しかしそれがあまりにも悲劇的なケネディ大統領の暗殺のニュースであった。日本国民誰もが暗澹たる気持ちになった。同じ年、名神高速道路が尼崎―栗東間で一部開通した。ドライブした友人が「やはり外車が違うわ」と言った言葉が印象的であった。その時日本人で車を持つ人は本当に少なかった。豊中で乗って栗東で降り、琵琶湖大橋を渡って帰ってくるのがお決まりのデートコースになった。次の年になると、新幹線が開通した。それまで東京までは8時間、それが3時間30分になった。誰も用事もないのに新幹線に乗りたがった。京都や名古屋までが定番になった。そしてこの年東京オリンピックが開催され、私と同じ年齢の広島の被ばく青年が最終ランナーとなって、長い階段を駆け上って聖火台に火をつけた。
同じ頃、紆余曲折があった名阪国道も無料の一般国道25号として、時の河野一郎運輸大臣のもと、1000日道路として開通した。今や名古屋と大阪を結ぶ重要なインフラとしてその役割を果たしている。そして1969(25才)年アメリカNASAのアポロ11号で人類が初めて月に降り立った。これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。That’s one small step for a man, one giantleap for mankind. 3人の宇宙飛行士が持ち帰った月の石は大阪万博に展示された。この時私は日本にいなかった。日本から遠く離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでスペイン語で書かれたこの言葉を新聞で読んでいた。同じ頃、空前のブームになったライアン・オニールとアン・マックグロー主演の映画「Love Story, ある愛の詩」とその主題歌に大きな感動と感銘を受けていた。愛とは決して後悔しないこと。Love means never having to say you are sorry.余談だが、当時ブエノスアイレスではミニスカートが流行っていた。白人(アルゼンチンはほとんど白人)の女性がそのプロポーションのとれた体に着けたミニスカートは私には何か異質の世界に紛れ込んだようだった。しかしそれもわずか3か月ですっかり慣れてしまった。そして最後は1970年の大阪万博であった。残念ながら日本にいなかったので、人から伝え聞いただけであった。私の家族や知人、そして日本に行って帰ってきたアルゼンチン人の誰からも興奮をもって伝えられた。
10代から20代半ばまでの多感な青春時代、あまりにも大きな出来事の数々であった。どれ一つ取り上げても大きなストーリーができる豊かな内容であった。日本の輸出ドライブは続いていた。私も会社員の一員として、各国を回って商品説明をし、日本に来た外国人に日本の良さ、優れた日本の製品を紹介した。ドル不足に悩む日本では官民一体になって日本の盛り上げを図り、ドルを買って海外に行く旅行者に厳しかったが、外国から帰ってきた会社員は税関フリーパスの優遇措置を受けたこともあった。
当時日本人はよく働いた。働き方が猛烈であった。それが何の苦にもならなかった。それが当たり前であった。誰もが何もない日本が生き延び、世界に認められるのは品質の優れた商品と日本人の勤勉さであった。それが豊かになる道であった。そう誰もが信じていた。今の働き方改革を見、日本の国力が2位から30位以下に落ちている現状を考えれば、戦後の発展の礎を築いてきた今は亡き人々はどう思うのだろうか。今は今、今は昔と違うと言ってしまえばそれまでだが、日本人が受け継いできた、世界に称賛された、精神的支柱までも失うことになれば、昔の日本人が営々と築き、作り上げてきた遺物や遺産で外国の観光客を呼び集めている現状をどう思うだろうか。
幼稚園の子どもたちが暮らす日本、彼らの青春時代はどんなものが待ち受けているだろうか。空飛ぶタクシー、リニア新幹線の開通や北陸新幹線の京都延伸、AI導入による失業率のアップ、出生数50万人を切るますますの少子化、外国人労働者の取り合い、人種問題の勃発、現金がなくなり、超音速旅客機の開発などによって世界はますます狭くなってくる。国境はあまり意味をなさないが、宗教的対立や人種間の争いも頻発するだろう。逆に考えれば、狭い偏狭ナショナリズムを捨ててしまえば、収まる可能性もあるが、誰もがアイデンティティの確立を求める今、対立は一朝一夕に解決するものではない。
10月、運動会があります。子どもたちは今一生懸命練習に励んでいます。どうぞご家族そろってのご来園お待ちしています。
もう戦前を超えたとか凌駕したという言葉を何回聞いただろうか。朝鮮戦争の特需でそれまで打ちひしがれていた日本の経済は飛躍的に発展への道を歩み始めた。池田首相の「貧乏人は麦を食え」は当時としては当たり前のことを言っただけだが、白米にあこがれる消費者に忖度するマスコミが貧しい人々を侮蔑する言葉として取り上げた。実際、戦前まで、例えコメ作りの農家であっても、かなりの農家が米を食べていなかった。供出米として政府に差し出し、年貢米として地主に米を引き渡すことで、手元に残るコメは少なかった。年に数回のお祭りや祝い事の時に白米を食べただけであった。麦ごはんが主流を占めた。私自身も農家の出であるが、祖父が麦を作り、それを米に入れて食べることがあった。
池田首相は所得の高い人は米を、低い人は麦を食べると言う当たり前のことを言っただけであった。池田首相の所得倍増計画や日本人の勤勉さと相まって、国力が大幅に伸びた。輸出にもドライブがかかり、商社マンや会社員が世界狭しと日本製品を売りまわった。又戦前の「安かろう、悪かろう」の欧米人の日本商品に対するイメージを払拭するために、デミング賞等を筆頭に品質管理にも力を入れ、大きな成功をおさめ、世界中から求められるようになった。それと軌を一にして、驕れる日本人が話題になったのもこの頃である。
今はコンピューターからAIへの大きな科学の進歩が言われているが、私の20代も留まることのない大きな変化の波に翻弄された。1963年(19才)、初めての衛星放送がアメリカから中継された。しかしそれがあまりにも悲劇的なケネディ大統領の暗殺のニュースであった。日本国民誰もが暗澹たる気持ちになった。同じ年、名神高速道路が尼崎―栗東間で一部開通した。ドライブした友人が「やはり外車が違うわ」と言った言葉が印象的であった。その時日本人で車を持つ人は本当に少なかった。豊中で乗って栗東で降り、琵琶湖大橋を渡って帰ってくるのがお決まりのデートコースになった。次の年になると、新幹線が開通した。それまで東京までは8時間、それが3時間30分になった。誰も用事もないのに新幹線に乗りたがった。京都や名古屋までが定番になった。そしてこの年東京オリンピックが開催され、私と同じ年齢の広島の被ばく青年が最終ランナーとなって、長い階段を駆け上って聖火台に火をつけた。
同じ頃、紆余曲折があった名阪国道も無料の一般国道25号として、時の河野一郎運輸大臣のもと、1000日道路として開通した。今や名古屋と大阪を結ぶ重要なインフラとしてその役割を果たしている。そして1969(25才)年アメリカNASAのアポロ11号で人類が初めて月に降り立った。これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。That’s one small step for a man, one giantleap for mankind. 3人の宇宙飛行士が持ち帰った月の石は大阪万博に展示された。この時私は日本にいなかった。日本から遠く離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでスペイン語で書かれたこの言葉を新聞で読んでいた。同じ頃、空前のブームになったライアン・オニールとアン・マックグロー主演の映画「Love Story, ある愛の詩」とその主題歌に大きな感動と感銘を受けていた。愛とは決して後悔しないこと。Love means never having to say you are sorry.余談だが、当時ブエノスアイレスではミニスカートが流行っていた。白人(アルゼンチンはほとんど白人)の女性がそのプロポーションのとれた体に着けたミニスカートは私には何か異質の世界に紛れ込んだようだった。しかしそれもわずか3か月ですっかり慣れてしまった。そして最後は1970年の大阪万博であった。残念ながら日本にいなかったので、人から伝え聞いただけであった。私の家族や知人、そして日本に行って帰ってきたアルゼンチン人の誰からも興奮をもって伝えられた。
10代から20代半ばまでの多感な青春時代、あまりにも大きな出来事の数々であった。どれ一つ取り上げても大きなストーリーができる豊かな内容であった。日本の輸出ドライブは続いていた。私も会社員の一員として、各国を回って商品説明をし、日本に来た外国人に日本の良さ、優れた日本の製品を紹介した。ドル不足に悩む日本では官民一体になって日本の盛り上げを図り、ドルを買って海外に行く旅行者に厳しかったが、外国から帰ってきた会社員は税関フリーパスの優遇措置を受けたこともあった。
当時日本人はよく働いた。働き方が猛烈であった。それが何の苦にもならなかった。それが当たり前であった。誰もが何もない日本が生き延び、世界に認められるのは品質の優れた商品と日本人の勤勉さであった。それが豊かになる道であった。そう誰もが信じていた。今の働き方改革を見、日本の国力が2位から30位以下に落ちている現状を考えれば、戦後の発展の礎を築いてきた今は亡き人々はどう思うのだろうか。今は今、今は昔と違うと言ってしまえばそれまでだが、日本人が受け継いできた、世界に称賛された、精神的支柱までも失うことになれば、昔の日本人が営々と築き、作り上げてきた遺物や遺産で外国の観光客を呼び集めている現状をどう思うだろうか。
幼稚園の子どもたちが暮らす日本、彼らの青春時代はどんなものが待ち受けているだろうか。空飛ぶタクシー、リニア新幹線の開通や北陸新幹線の京都延伸、AI導入による失業率のアップ、出生数50万人を切るますますの少子化、外国人労働者の取り合い、人種問題の勃発、現金がなくなり、超音速旅客機の開発などによって世界はますます狭くなってくる。国境はあまり意味をなさないが、宗教的対立や人種間の争いも頻発するだろう。逆に考えれば、狭い偏狭ナショナリズムを捨ててしまえば、収まる可能性もあるが、誰もがアイデンティティの確立を求める今、対立は一朝一夕に解決するものではない。
10月、運動会があります。子どもたちは今一生懸命練習に励んでいます。どうぞご家族そろってのご来園お待ちしています。