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Life is short, Art long.

2022.09.01


 美木多幼稚園は45年、老人施設「ハーモニー」が25年、諏訪森幼稚園は12年、鳳幼稚園は10年目を迎えました。通算の歴史をたどると、鳳も、諏訪森も90年以上にもなるのですが。緑あふれる施設、自然との共生、子どもたち、保護者の皆様、そして高齢者の皆様に喜んでもらえる施設、建物、先生や職員との暖かい心の通った関りや運営を、当然ですが、心がけてまいりました。私たちの成長と同じく、樹木も生育し、枝が道路にはみ出し、影を作り、迷惑をかけていることもある。人との共生という観点からは、お互いに譲り合わなければいけないのは当然と思いながらも、根元から無残に切り倒されているのを見ると、本当に悲しい気持ちになる。そんな中で特養などの老人施設では終の棲家として、何が必要なのか?長年日本経済発展のために、日夜努力されてきたお年寄りが、今いる所が最終の場所として、満足してもらえているのか?十分なケアをしてもらっているのか?誰もが例外なく迎える老いの姿、100%とはいえないまでも、楽しかった、有意義な人生であった実感して、最期を迎えてほしいという思いを職員の皆さんと共有したい。団塊の世代が後期高齢者にさしかかった今、問い合わせや入所希望者が増加してきた。対して幼稚園はどうだろうか?泉北ニュータウンの開発、発展につれて、最初の15年くらいは園児の増加がうなぎ上りで、マンモス幼稚園と呼ばれたこともあったが、今はピークの三分の一、これは何も自然減や人口減だけの理由ではなくて、美木多幼稚園、「もっとしっかりしなさい」という戒めの言葉であり、捲土重来の励ましの言葉でもあると思う。諏訪森幼稚園は堺市で最初の幼保連携型認定こども園として認可を受け、90年余りの基礎の上に、今は高齢者となった卒園児や地域の人に愛されて素直に成長してまいりました。鳳幼稚園は民営化された当時の熱気や高揚感が徐々に静まってきたとは言え、まだまだ熱望されて、鳳幼稚園を選んでいただく保護者の皆さんが多いのは本当にうれしい。毎年9月、10月は願書配布と願書受付の時、保護者の皆様にどれ程信頼されているか、頼りにされているか、それが私たちにとってのバロメーターであり、一喜一憂の瞬間です。どちらにしてもこれからも子供たちの楽しくて、幸せな顔、そしてその後ろにいる保護者の皆様の大きな喜びと、信頼感をいただけるよう、今以上に教職員一同力を結集してまいります。どうぞ今一度私たちに任せていただき、私たちは悔いのない、後悔をさせない保育に努めてまいります。よろしくお願いします。
あなたの趣味は何ですか?よく聞かれる。野球とか、写真とか、読書とか音楽鑑賞とか答えていた。30歳の時に一般企業に勤めていた大学の同級生にゴルフを勧められ、その後それが趣味になった。勿論友達と一緒に行くこともあるが、ほとんどの場合、一人で行って、知らない人のグループに入れてもらう。サラリーマンや会社経営者、弁護士や医者などの自由業の人、様々な職種の人に出会い、いろいろ知識を得たり、見聞が広がることもある。私たちの年齢ではもうボールも飛ばないし、方向性もうまくいかないし、スコアもまとまることが少ない。ただ「昔はもっと上手かった。」というのが関の山であり、言ってもどうしようもないし、「又昔のことを言っている」と非難気味にけなされる。そんな時に、80代になったのに、まだまだ上手くなろうとして、練習したり、プロに教えてもらう人が多い。そのことにも感心していたのに、90歳を超えてもまだプロに教えを乞うゴルファーのことを聞いた。あと何年ゴルフができるのか、あと何年生きながらえるのか、微妙な歳であるのに。高齢者でプレーをしている人の中には足が痛いとか、腰が痛いとか言う人が多いが、逆に考えれば、そんな境遇でも、それだけ前向きの考えを持っているのだから、神は命を伸ばしてくれるのだろうか?あるいはその意欲で、その人の寿命がどんどん伸びていくのだろうか?生物学的、医学的に人間はいくら努力しても、限界がある。しかし少しでもそれに近づこうと努力している。人生は一生勉強だと賢人たちは言っているが、本を読むだけが勉強ではあるまい。何事にも打ち込むこと、没頭すること、何事にも前向きに努力することがこの世で生きた証であり、私たちが見習わなければならない教訓だ。幼稚園の子供たちにとってはこれからの90年は長いように思えるが、それに近づきつつある私の感想からすれば、本の瞬きのような瞬間であり、陽炎のようなはかなさだ。すぐにやって来て、すぐに消え去っていく。その意味でもこの瞬間を大切にし、後悔のない時にしたい。Life is short, and art long.
運動会の練習に忙しい9月、長月、台風の月、雨や風に負けることなく、運動会の練習頑張ります。当日保護者の皆様方によく頑張ったねと褒めてもらうことを期待して。

閑話休題

2022.08.01


 ある識者は滅亡するあるいは衰退する民族として、次のような例を挙げている。
1. 理想を失った民族。
2. すべての価値をものでとらえ、心の価値を失った民族。
3. 自国の歴史を忘れた民族。
私たち日本人は果たしてどうだろうか。その崇高で高邁な理想を持つ民族として、世界から尊敬と畏怖の念で見られていたのが、近年ともすれば、拝金主義の横行と大いなる利己主義に苛まされている。民族の誇りと矜持を持ち続けることが少子化に悩む日本のあるべき姿と思う。時あたかも凶弾に倒れ、不慮の慚愧に堪えない非業の死を遂げた元首相の主義主張とも符合する。意見は異なっても何とかして民族の魂を揺さぶり、惰眠をむさぼる民族を叱咤激励する姿はだれも否定できない。どんなに怒りがあっても、どんなに逆上しても、どんなに我慢できなくても、人が人を殺めることは、例え戦争であっても、してほしくない。若い青年男女がその先を見ることなく、この世に別れを告げている。西洋と東洋では死生観が異なるといえ、本当に痛ましいことだ。どうか幼稚園のこの子たちが22世紀の世界を見るまで、元気に生き延びてほしいと心より祈らずにいられない。太平洋戦争で命を落とした100万人以上の日本人がもうこんな馬鹿げた殺し合いを止めてほしい、自分たちだけで十分だと彼の地で願っている。終戦の年、私はまだ1歳にもなっていなかった。そんな私が今まで生きながらえてきた事に、祖父母、両親、知り合いの人や近所の人、そして名も知らない多数の親切な人々にいくら感謝してもしすぎることはない。
閑話休題、少し前に伝説的なカーレーサーの中嶋悟の話を読んだ。「レーシングカーは少ない距離の走りに耐えたらいいだけだから、そんなに強い車体はいらない。」驚いた。あんな高速で走っているのだからずいぶん丈夫に作っていると思っていた。実はその逆。若い時より車に少し興味があった。しかし基本的なことを知らなかった。小林旭の「自動車ショー歌」は有名だが、今は存在しない車や会社がある。目という岸和田出身のセールスマンを通じて、日野自動車のコンテッサが家にやってきた。リヤエンジンの優美な車だった。学生時代には親のブルーバードSSSに乗った。当時としては高馬力の100馬力であった。プリンスのスカイラインGTBは垂涎の的であった。月給3万円の時のフェアレディは100万円、しかも現金での販売のみであった。手に負えなかった。20代の会社員の時は堺から門真まで、最初は2ドアのカローラ、その後セリカのリフトバックに乗り換えた。教員時代は日産のローレル2ドアであった。私の好きな車であった。50代ではスバルSTIと三菱ランエボを交互に何回か乗り換え、マニュアルシフトを楽しんだ。エボファイナルは今でも惜しい車だ。25年前のランクル100は盗難にあって、嫌な思い出だ。300にも乗ったが、25年の進歩はどのレベルかよくわからない。GTRは異次元の瞬発力だが、タイヤの溝があまりないので、4WDにも関わらず、スリップが本当に怖い。15歳で50CCの免許を取って以来、幼稚園バスの運転も兼ねて、大型免許も所持している。SDGsの問題もあるが、時計も含め、メカメカしたものには心を惹かれる。今年の夏休みはコロナの第7波が押し寄せている。厚労省は高齢者の接触以外ではマスクの不要をTVで流している。対人や環境にも十分気を付けながら、マスクのない爽やかな夏、生活を楽しみたい。今年の夏は海や山、行楽地へ出かけるのもありかなと思う。毎年休み明けには一段と大きくなった子供たちの姿がまぶしい。病気に罹ったり、事故にあったりすることなく元気に2学期、幼稚園に帰ってきてほしい。幼稚園号は新しい冒険の世界に出発です。尚、厚かましいお願いですが、9月は園児募集の願書の配布、10月は願書提出となっています。ご近所、お知り合いで、対象の園児さんがおられましたら、ぜひとも入園を薦めていただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

和顔愛語

2022.07.01


 母は師範学校を卒業し、小学校の教員として働いた。若いときには満州にも行ったそうだ。何事にも活発な進取の気性に富んだ女性であった。最初は自転車やバス通勤をしていたが、スクーターが発売されると(確か三菱のピジョン)、すぐに購入し、通勤方法がそれに代わった。家の前の坂にその音が響くと、帰ってきたことがすぐに分かった。勿論昭和30年代にそんなことを許す父親も寛大であった。赤坂台小学校を定年の一年前に退職して、美木多幼稚園設立と同時に初代園長に就任した。私から見ると、何事にも意欲的で、優しく、近所の子供を集めては文字や書道などを教えていた。母はお花、お茶、書、体操などが得意で、特に書道に関しては年老いてからもその道の先生に教えを請い、数多くの作品を残した。私は書を書いているのを知っていた。ある時母が表装の話を私にしたが、私の中では想定外の高さの費用であり、その希望を実現させてあげることができなかった。それ以降その話をすることはなかった。あの時の医者の対応に満足したわけではなかったが、国立大阪病院で2年間、ただ天井を見上げるだけ、話すことも手を動かすこともできずに過ごした。ただ瞼を少し動かし、顔の表情を変えるだけの生活であった。頭はしっかりしていたので、余計悲しみが募った。もし追体験できるならば、表現するすべての手段を奪われた気持ちはどうだったのか、どの位残酷なことなのか、知りたいと思った。その母の死後、いろいろ整理していると、たくさんの書が出てきた。表装をすることを拒否されたそれらは、いつかは立派な額に入れられて、飾られることを待ち望んでいるように私には思えた。表装をする、額に入れる、それ自体は決して安くはないが、奢侈品を買うことを思えば、大きな額ではなかった。私は自分の罪滅ぼしの意味でも、母への敬慕の意味でも、残されていた全ての作品を表装し、私の関係する幼稚園や老人施設に掛けさせていただいた。その中に「和顔愛語」があった。母の大好きな言葉であり、作品も多かった。額に入ったその言葉は毎日見慣れているせいか、何も意識することはなかった。時々いい言葉ですねと言われることもあったが、「ありがとうございます」と通り一遍の返事をするくらいであった。しかし人は思いがけないときにふと目についた柱にかかった額の文句などにはっと心を打たれ、目を見張ることが少なくない。そしてそれが思いがけない時に思い出され、心の養いになり、決断する時の大きな力になる事もある。今回の私はこの言葉を見て、母を思い出し、優しさを知り、巧言令色でなく、笑顔になり、優しい言葉,いとおしい言葉で人に謙虚に接することの大切さを再認識することになった。私が生まれてきたのは勿論父親や母親のおかげ、もっとさかのぼれば、先祖代々のおかげだろう。
この事について、日本の戦前・戦後の首相等に大きな影響を与えた思想家の安岡正篤は次のように述べている。「わが幸福は祖先の遺恵、子孫の禍福は我が平生の所行にあること」「平生、己を省み、過ちを改め、事理を正し、恩義を厚くすべし」「成功は常に苦心の日に在り、敗事は多く得意の時に因ることを覚えるべし」「用意周到なれば、機に臨んで惑うことなし」今まで何事もなかったような物が急にある瞬間大きな意味を持つことがある。そんな思いを抱くことが多い。一種の好奇心を持ち続けているせいだろうか。
熱い暑い日々が続きます。どうぞご家族の皆様にはご自愛していただき、今しかない2022年の今月も有意義に充実して過ごされますことをご祈念いたします。
7月、文月、July、子どもたちの健康と幸せを願い、そしてコロナ撲滅を目指して Bon Voyage.

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