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幼子たちの英語教育

2018.02.01


太陽が近づき、昼がいっそう長くなってきたとはいえ、体感温度が一番厳しい2月、受験生にもその重圧がのしかかっている。今はAO入試や指定校推薦を通じて、早期に学生を確保しようとする大学側の思惑があって、昔ほど悲壮感がないものの、寝食を忘れて、受験勉強に取り組み、第一志望を目指してきた受験生にとっては一つの大きな山場、努力した全ての人に大きな春が来ることを祈るばかり。しかし努力が報われず、捲土重来を期す人も多い。片や40%の大学が定員割れ、片や厳しい大学入試、世の中の矛盾とはいえ、受験生や保護者の大学を見る目は年々厳しくなってきた。昔は一学年200万人以上の人口、今は100万人を切っている。その間に大学の数も、定員も増えた。いくら大学に行く人が増えたと言っても希望者と定員の乖離が大きい。幼児教育から大学教育までそれぞれの段階で二極化が進んでいる。保護者の我が子に対する将来の展望、仕事についての思いや、希望がより大きくなった。換言すれば、我が子が少しでも良い職業、安定する職業に就いてほしいという望みがよりいっそう大きくなったのかもしれない。私たちの幼稚園も保護者の期待に寄り添う保育活動をしなければとの思いが強い。そんな時に英語の早期教育は必要かという番組があった。生まれて間もないお子さんで、日本語もまだ満足にいかないときから、単語を言ったり、簡単な文章を話したり、英語の本を読んだりしている保護者がいた。英語と日本語の混ざり言葉で困っている人もいた。私の育った堺南部の美木多中学校はその当時1学年60人の小さな学校、英語の教員は英語以外に職業家庭も教えていた。好きな先生であった。しかし亀をトートイズと生徒に教え、私も高校までそれが正解だと考えていた。これは一つの例に過ぎなかった。高校の教員もおかしな発音をしていたこともあった。要するに昔の英語教育であった。それでは小さいときに英語圏にいれば、生涯英語が流ちょうかと言えば、そうではない。小さいときは英語に何不自由なくても、帰国して大人になれば、英語を忘れてしまうと言うか、スムースに話せない。反対に20歳前後で語学を習得すれば、それは死ぬまで何らかの形で残っていく。私の事例で申し訳ないが、20歳前後の4年間それなりにスペイン語を勉強し、3年間ほどアルゼンチンに駐在した。現地の人の前でスペイン語で商品説明したことも多々あった。30歳以降スペイン語とも縁が切れた。しかし40年たった今でも、スペインや中南米に行けば、日常会話は十分通じるし、仏語や伊語を見ても、その意味することは大まかには理解できる。美木多幼稚園は40年前から、諏訪森幼稚園は8年前から、そして鳳幼稚園は5年前から英語圏の外国人に来てもらっている。それは幼稚園っ子が沢山の英単語を知るためではない。世界には日本人と異なった肌の色、顔つき、目の色、髪の色を持った人がいること、又日本語以外の理解できない言葉があること、そしてその言葉にはイントネーションやリズムがあること等を少しでも知識として習得してもらいたい、又は頭の片隅にでも置いてもらいたいからです。言語は話せないより話せる方がよい、自明のことです。しかし外国の人と仲良くする、あるいは商行為をするだけではそんなに言語をうまく話せなくともよい。それよりもその人の持っている知識、教養の方がよほど大切だと思う。昨年末、機会があってヘルシンキ、ロンドン、パリに行った。ヘルシンキはそれ程寒くなかった。マリメッコのoutletで来年の音楽生活発表会用として生地を10点ばかり買ってきた。泊まったロンドンのホテルの近くにNobuという日本レストランがあった。日本人の寿司職人が何人も働いていたが、こだわりの食材を説明し、それが印象に残った。パリに行くユーロスター列車の始発駅St.Pancrasの駅員さんは大変親切でパリ行き往復切符購入後その場所から税関の所まで優先的に案内されて驚いた。逆に帰りのパリNord駅では1時間以上も多くの乗客に混じって立って待たされたが、何の説明もなく不満が募った。ドーバー海峡の下を走るユーロスターはロンドン・パリ間が2時間15分、本数も増え、パリ日帰りも容易になった。日本国内いたるところで中国人や韓国人を見るが、外国に行ってもそれは変わらない。中国や韓国のパワーを見せつけられる思いがする。
今月は大きな行事、音楽生活発表会があります。子どもたちも先生も頑張ります。応援よろしくお願いします。

Let's have a dream

2018.01.01


 新年あけましておめでとうございます。新しい年、2018年の幕開けです。
新しい年を語る前に、今となっては過去となった2017年はどんな年だったでしょうか。
小さいお子様をお持ちの皆様にとっては、きっと悩まされたことも多かったと思います。しかし裏を返せば、お子様を持つことの喜び、幸せ、を享受できたのではないでしょうか。皆様の世代は人生の一番良い時期であり、何事にも誰からも期待され、頼りにされるときです。人は何事にもネガティブでなく、ポジティブに受け取ろうとよく言われます。「できない」と言う前に「どうしたらできるか」を考えよう。駄目だと思う前に、まずやってみよう。成る程人は立ち止まり、考え、後ろに引き下がることもあるが、過去を引きずらず、前を向いて積極的に果敢に挑戦することの方が大事だと説く人が多い。この時期はある意味、怖いもの知らずだが、すぐに過ぎ去ってしまう大事な年代です。私のその時代は40年から50年前、一生涯同じ会社で働くことは常識であった。もっともその常識はその当時でさえ、海外に駐在すると、そうでないことが分かったが。もし何らかの原因で転職するならば、30歳までが限界であると言われた。そして30歳でその人がどの程度まで会社で出世するかもわかると言われた。しかし今や非連続性の時代、昔の常識は今の常識でなくなってきた。話は横道にそれたが、人はいつも夢見ていた。1970年の大阪万博でタイムカプセルが埋められた。1インチの手のひらサイズのテレビもその中にあった。未来の技術に対する挑戦であった。当時の画面はブラウン管で、奥行きがかなりあった。50年前に南米の片隅でイタリア系の社長は壁掛けテレビを夢見ていた。日本への電話も何時間も待たされる時代であった。それが衛星の中継によって大きな進歩を遂げた。リアルタイムであった。アポロが月面に着陸し、人類が月に小さな一歩を刻んだ。オリンピックを合言葉に、高速道路や1000日で作られた名阪自動車道、3時間に縮まった新幹線、華々しい技術の進歩が遂げられた。日本人は鼻高々であった。自分たちが一番、Made in Japan の勢いは止まらなかった。GNPもアメリカに次いで2番目、国連分担金も2番目、日本人は誇らしげであった。しかし世界は日本人が思うほど日本をそんなに高く評価したわけでなかった。欧米には先進国としての歴史があった。極端な話、オリンピックも貴族の集まりと言ってもいいかもしれない。他のスポーツも同じ。世界には日本人がびっくりするような事もまだまだ沢山あるし、謙虚に教えを乞うことも多い。しかし日本人は器用にそれらの事を自分の物として同化してきた。日本の国技と言わないまでも、人が熱中できるものに育てていった。そしてオリンピックでも、その他の国際競技でも、皮肉なことに普段は日の丸や政権与党に反対している人でさえ、その旗の下、日本人という共通認識で大きな声援を送っている。2017年まで夢であったものが2018年になってどんなことが叶えられるだろうか。目に見える形での急激な技術的進歩はないだろう。しかしながら基礎研究から始まった技術の進歩は徐々に花を開かせるだろう。最初にどの国で花が開くかわからない。ゴルフ場で知り合った自動車用電池のセパレーター(絶縁体)を製造している人が孫に英語ではなく中国語をマスターするように説得していると述べた。その中国がパイオニア的な役割を背負うのか、従前のように欧米諸国なのか。興味深い。技術的な夢は別として、夢には大小がない。人は夢が無くては熱意も意欲も生まれない。奴隷のような生活を続けている人は未来に絶望するし、今は苦しくても明るい展望のある人には希望がある。子育ては苦労や戸惑いの連続かもしれないが、子どもの未来を考えれば、今の苦悩は和らいでくる。人生は短い。人生は長い。どちらも正解だろう。それは何万年も前から続いてきた人間の普遍の営み、その中で、例え小さくとも、限りのある人生、いい夢を見て送ってみたい。新年早々こんな他愛もないことを考えている。
今年も皆様の上に幸福と健康の天使が舞い降りますように心より願っています。本年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。

論理的と情緒的

2017.12.01


10年少し前だろうか、日系人の従妹の結婚式に招かれてサン・フランシスコに行った。彼女はハーバード大学出身の弁護士であったが、そのスピーチに誰もがほめたたえた。それはなぜか。論点、話題を整理し、参列している人に納得のいく、理解しやすい話し方を、冗長でなく、手短に論理的にしたからであった。彼女にとっては高校や大学を通じて、身に着いたアメリカ流の合理的・論理的な当たり前の話し方をしただけであったのだが、参列者はそうは思わなかった。翻って、私たち日本人は一般的に感覚的、情緒的な話し方をする。私も人の前で話す時ですら、次々に頭に浮かぶ言葉を順番に無作為に発言していく。決して論理的でなく起承転結もない。昔よく海外から帰ってきた人は合理的、自己中心的で、人のことをよく考えない発言をすると言って、少なからず不遇の状態に置かれた人もいた。海外で活躍し、おおいに会社に貢献したのに、日本に帰ったら報われない。その為に海外に駐在で赴任したがらない人も増えたこともあった。しかし今はグローバルの時代、こんなことは昔の事と言って、どこの会社も笑っているかもしれない。西欧流の合理的・論理的な方法が感覚的・情緒的な考え方よりも優れていると言っているのではない。海外では論理的・法律的に相手を徹底的に打ち負かさなければ、打ち負かされる世界なのだ。日本も専門職や海外営業マンを中心にそのような筋道の通った論理的な思考をする人も増えてきているとはいえ、まだまだ少数派だ。「相手を傷つけない」「和をもって貴し」「相手の逃げ道を作ってやる」「思いやる心」は私たち日本人が過去から受け継いできた美徳だ。それを逆手にとって、卑劣な犯罪をする者も増えたが、昔の家中心の村社会では考えられない事だ。最近私の青春時代の曲をたくさん聞く機会があった。昔はそんなものかと口ずさんでいたが、歌詞をよく見てみると、感覚に訴える情緒的な言葉が多い。例えば中森明菜のセカンドラブ「切なさがクロスするさようならに」「切なさのスピードが高まってとまどう」卒業写真の「人ごみに流されて変わってゆく私」木綿のハンカチーフ「ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」秋桜「薄紅の秋桜が秋の日の何気ない陽溜りに揺れている」きみの朝「別れようとする魂と出会おうとする魂と」恋に落ちて「吐息を白いバラに変えて」いい日旅立ち「あー日本のどこかに私を待っている人がいる。いい日旅立ち、夕焼けを探しに」季節の中で「うつむきかけたあなたの前を静かに時は流れ」なごり雪「なごり雪も降る時を知り、ふざけすぎた季節のあとで」カモメはカモメ「この海を失くしてでもほしい愛はあるけれど かもめはかもめ ひとりで海をゆくのが お似合い」聖母たちのララバイ「この都会は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士」昴「目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ」誰もいない海「わたしは忘れない 海に約束したから」精霊流し「せんこう花火が見えますか 空の上から」花嫁「花嫁衣裳はふるさとの丘に咲いた野菊の花束」安奈「安奈 おまえの愛の灯はまだ燃えているかい」ルビーの指環「くもり硝子の向こうは風の町、問わず語りの心が切ないね」シクラメンのかほり「季節が頬をそめて過ぎてゆきました」心もよう「黒いインキがきれいでしょう 青い便せんが悲しいでしょう」恋の予感「夜は気ままに あなたを踊らせるだけ ただかけぬけるだけ」夢の途中「さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」贈る言葉「悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣く方がいい」長い夜「長い夜を飛び越えてみたい おまえだけにこの愛を誓う」太陽がくれた季節「君は何を今見つめているの 若い悲しみに濡れた眸で」
先日雨が激しく降る阪和自動車道下り線を比較的高速で走っていた。重心が低い四輪駆動の乗用車であった。右に料金所を見ながら左に少しカーブした所で、急に大きな横滑り、左の車線に急激に移動、ハンドルが咄嗟のことできかない。初めての経験で、一瞬何が起こったのかわからない。幸い横に車はいなかった。最悪、横のガードレールに接触を覚悟したが、ハンドルを真っ直ぐしっかり握っていたのが良かったのか、少しして体勢を立て直すことが出来た。何秒間の出来事が何時間も続いたように思えた。ハイドロプレーン、50年以上前に、名神高速道路の誕生と共に生まれたこの言葉をよく知っていたが、その時よりもはるかに進化した今では死語と考えていた。過信が招いた出来事であった。この現象を避けるために、タイヤ会社は水を逃げやすくする設計をしていた。しかし私の車がはいていたタイヤは晴れ用タイヤで溝が殆どなかった。考えればスリップは当たり前だった。雨の日の慎重運転を思い切り知らされた。ある意味高速道路では視野角度も狭くなるが、低速では左右を見る余裕も生まれる。今まで見えなかったものがどんどん目に飛び込んでくるのだから、他人の迷惑にならない限り、低速ドライブもたまには結構いいものだと思う。
師走、12月、2017年、平成29年もいよいよ終わりです。この1年間、時には暖かいお言葉、時には厳しい叱咤激励を頂きました。皆様方の励ましのお言葉をかみしめながら2018年、平成30年も子どもたちの生長を期待して活動をしてまいります。どうぞ今後ともご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

食材と温泉 大分県

2017.11.01
食材と温泉 大分県

 その船は19時05分きっかりに出航した。今まで船とは縁がなかった。その船は大きかった。フェリーであった。今まで何回かフェリーに乗ったが、これほど大きいフェリーは初めてであった。夜の大阪南港第1フェリーターミナル、車の種類や長さを伝えて切符を買った。行先は大分県別府フェリーターミナルであった。その船の名前はサンフラワー(ヒマワリ)であった。瀬戸内海を通って別府まで約12時間弱であった。車を乗せていない乗客も多数いた。九州に行くのには新幹線か飛行機だけだと思っていたが、こういうルートがあることに初めて気づいた。私は1回だけこの航路を経験したことがあった。55年程前の高校生の修学旅行であった。大阪には天保山という港があった。そこから関西汽船が出ていた。ワクワクする九州への修学旅行の起点であった。そこから関西汽船が出ていた。どんな船だったのか今はもう覚えていないが、外国人が珍しく船内にいて、場所を聞かれて頓珍漢な答えをしただけは鮮明に今でも覚えている。上陸した後は別府温泉の地獄めぐりをし、観光バスで阿蘇山に行き、その後長崎まで行って、列車で堺に帰ってきた。道は狭く、舗装してなくて、前のバスの土ほこりが容赦なくクーラーのない私たちの観光バスに侵入した。今だったら耐えられないだろうが、当時はそんなものと思っていた。それからの55年、瀬戸内海を通過したことが無かった。そのサンフラワーには大きな浴場があった。個室もあり、ベッドもあった。食事はバイキング形式であった。フェリーが出帆して1時間、船長は明石大橋の真下を通ると放送した。2日後にこの上を通るとは思っていなかった。今年33回目を迎えた全日本私立幼稚園連合会設置者・園長全国研修大会への参加であった。今年の参加者は500名余り、日本全国から集まった。私もそのうちの1人であった。いつもそうだが、文科省の役人の意見を直接聞きたかった。少しでも私たちの幼稚園に役立つ情報を持って帰れたらという思いでもう何回も何回も参加してきた。内海のせいか、又はフェリーが大きいせいかほとんど揺れることもなく、定刻少し前の7時頃に目的の別府港に着岸した。小雨が降っていた。会場は大分市のオアシスタワーホテルで、受付は12時からであった。5時間あった。ふと思いついたのが関アジ、関サバで有名な、そして学校時代に地理で勉強した製錬所のある佐賀関であった。ナビで教えられた道は朝8時頃のせいか、渋滞の連続であった。やっと着いたが、選挙運動の真最中、有力E議員の選挙カーに何回もであった。半島を少し回ったところに漁港があり、たくさんの漁船が係留されていた。雨で漁に出なかったのか、既に漁から帰ってきたのだろうか。改装中の魚の直売所の建物があった。職員は、今日生魚は入荷していないと言った。ふと建物を見ると、「平成22年度種子島周辺漁業対策補助金」と記されていた。ここは大分県、種子島周辺と言えるのかなと思ったりもした。ここの製錬所の建物は大きかったがそれにもまして、標高132mの丘の上に建てられた高さ200mの巨大煙突にはびっくりした。煙害防止だそうだが、この日は雨空で、煙突の先は雲の中に隠れていた。大分市はこんなに建物がたくさんあり、大きくてきれいな町とは想像していなかった。よく地方再生と言うが、地方の町の方が立派で綺麗で豊かでないのかと考えたりした。初めに連合会の会長は、幼稚園は原点に戻らなければいけない。少子化とか、国の補助金も大切だが、幼児を立派に教育し、小学校につなげていく幼稚園本来の役割を愚直に実行していくべきだと言った。私もまったく同感だと思った。次に長州藩の末裔で、別府でピアニストとして活躍する伊藤京子さんがグランドピアノを時には弾きながら講演をした。その中で心に残っていることは「演奏方法はいろいろあってもよいが、その曲がどのようにしてできたか、作曲家の意図を十分伝えるようにピアニストは演奏しなければいけない。例えばショパンの「革命」の曲は作曲がどのような状況下で書いたかを知らねばならない。ただ楽譜に忠実に演奏しているだけではだめなのです」と言ったことです。昔現地で聞いたタンゴ歌手の藤沢蘭子さんがアルゼンチンの人に「歌は素晴らしいが、何か心に響くものがない」と言われた事と同じなのかも。文科省の課長は幼稚園教育の無償化を進めていて、誰も収入に関係なく、幼稚園に行かせることが出来るように保護者にはその保証をする事と不足する0~2歳児の施設の中で、幼稚園で2歳児を積極的に受け入れることが出来るように対策を考えている、それに来年4月からは幼稚園指導要領が変わるので、その内容と対応などについて話された。最後に危機管理の観点から講演があった。事故は事故が起きるように行動している。たまたまはない。起きたことはしっかりと受け止め、明日は我が身と考える。後悔先に立たず、をしっかり肝に銘じる。事故は0~4歳児が多く、5歳児になると減る。最後に幼稚園は小さいお子様をお預かりしているのだから、毎日何も起こらないのは奇跡である。奇跡が続くように頑張って行こうと言われた。帰りは別府港から愛媛県佐田岬の付け根の八幡浜港をフェリーで目指した。89km、2時間30分。高い煙突が見える佐賀関までは海は穏やかであったが、豊後水道に入るや否やその高さが2m以上と思われる激しい波が船にぶつかり、しぶきが甲板に飛び散った。四国の高速道路、鳴門大橋、明石大橋、神明道路、阪神高速を経由して堺に帰ってきた。八幡浜から400kあまり、まだ返納は大丈夫かなと一人考えていた。 さて今月もみかん狩りや作品展、その他いろいろな行事が待っています。元気に取り組んでまいります。厚かましいですが、ご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

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研修大会

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別府鉄輪温泉

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漁港と高い煙突

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宇和島フェリー

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豊後水道通過

消えつつある言語

2017.10.01


お母さん、「おんなもんべつ」と書いているよ。賢そうな小学生の女の子が横にいる母親に「難しい漢字も読めるようになった」と言うことを暗示するように小さな声でつぶやいた。それはめまんべつと読むのよ。優しい声で答えた。伊丹空港を離陸して約2時間、JAL機は北海道東部、網走市近くの女満別空港に満員の乗客を乗せて着陸した。8月下旬、この便は明日で運航を終える。それ以降女満別に大阪から行くには、札幌か東京経由しかフライトがない。最後の激安便であった。今から50年以上前の大学3年生の時に友達3人と北海道のこの地域にやってきた。カニ族?と呼ばれた。荷物を一杯詰め込んだリュックを背負って汽車やバス、ヒッチハイクで北海道中を旅することが流行であった。そのほとんどがユースホステルに泊まった。一方では学生運動がまっただ中であり、一方ではリュックを背負っての観光であった。グループでの旅であった。行程は自分たちで決めていくのだが、そんなに沢山ルートがあるわけでなかった。ある場所で知り合い、別れ、又ある交通機関で知り合い、別れ、又出会うということが多かった。そこでは友情が芽生え、他大学を知り、ロマンも生まれることがあった。沢山歩いて、疲れることもあったが、体力の方が勝った。青春の1ページであり、ほろ苦い経験でもあった。函館に帰る汽車はトンネルが多く、機関車の煙で真っ黒になった。彫りの深い妙齢の女性に函館に着いたら、「お風呂にご案内しましょうか」と言われてみんな喜んだことも旅の思い出だ。青函連絡船の上では何回か出会った福井大学のグループに又会った。青森に着くまでずっと話をしていたのを憶えている。青森から急行「日本海」で無事大阪に帰ってきた。時間に無限の余裕があった青春物語であった。それから50年あまり、再びこの地域にやってきた。今度は汽車でなく飛行機で。この地で印象に残っているのは2カ所。美幌峠から見下ろす屈斜路湖の美しい景観であり、もう一つは2度行った摩周湖で会った。1度目は霧で覆われ、何も見えなかった。しかし麓の町まで帰ってきて、ふと後ろを眺めると、霧が消えていた。急いで引き返し、崖を下って、水辺まで行った。摩周湖の美しさと水の透明さを実感した。あのとき沢山撮った写真はどこへ行ったのだろうか。今回も美幌峠は晴天であった。摩周湖までレンタカーで行ったが、その自然の美しさ、神秘さを堪能してくれと言わんばかりの姿で歓迎してくれた。西にハンドルを切って阿寒湖を目指した。鶴雅別荘鄙の座で見たアイヌ人彫刻家藤戸竹喜氏の熊の木彫りに大きな感動を覚えた。繊細なタッチ、それでいて大胆な一刀彫りの彫刻は私の心に大きく響くものがあった。近くに藤戸氏の店があった。彼の作品は地下に展示されていた。多くは非売品であったが、気に入った熊の小品を分けていただいた。同じような作家で、最近亡くなられた瀧口政満氏の作品も素晴らしいという意外に言葉が見つからなかった。アイヌのことはほとんど知識がない。しかし、コタン(集落)、カムイ(神)、イヨマンテ(熊祭)、ユーカラ(叙事詩)、ラッコ、トナカイ等の言葉は私たちの中に根を下ろしている。金田一京助教授によって再び見いだされたアイヌの言語、言葉、詩、伝説、説話、等々は日本民族との同化政策によって、失われつつある。又その言語も今は語る人も限られ、消えつつあるという悲しい運命に翻弄されている。しかしその源は今でも北海道の各地で受け継がれ、名前を残し、誇り高い民族の矜持を保っている。




アイヌ人彫刻家 藤戸竹喜氏 熊の木彫り

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