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消えつつある言語

2017.10.01


お母さん、「おんなもんべつ」と書いているよ。賢そうな小学生の女の子が横にいる母親に「難しい漢字も読めるようになった」と言うことを暗示するように小さな声でつぶやいた。それはめまんべつと読むのよ。優しい声で答えた。伊丹空港を離陸して約2時間、JAL機は北海道東部、網走市近くの女満別空港に満員の乗客を乗せて着陸した。8月下旬、この便は明日で運航を終える。それ以降女満別に大阪から行くには、札幌か東京経由しかフライトがない。最後の激安便であった。今から50年以上前の大学3年生の時に友達3人と北海道のこの地域にやってきた。カニ族?と呼ばれた。荷物を一杯詰め込んだリュックを背負って汽車やバス、ヒッチハイクで北海道中を旅することが流行であった。そのほとんどがユースホステルに泊まった。一方では学生運動がまっただ中であり、一方ではリュックを背負っての観光であった。グループでの旅であった。行程は自分たちで決めていくのだが、そんなに沢山ルートがあるわけでなかった。ある場所で知り合い、別れ、又ある交通機関で知り合い、別れ、又出会うということが多かった。そこでは友情が芽生え、他大学を知り、ロマンも生まれることがあった。沢山歩いて、疲れることもあったが、体力の方が勝った。青春の1ページであり、ほろ苦い経験でもあった。函館に帰る汽車はトンネルが多く、機関車の煙で真っ黒になった。彫りの深い妙齢の女性に函館に着いたら、「お風呂にご案内しましょうか」と言われてみんな喜んだことも旅の思い出だ。青函連絡船の上では何回か出会った福井大学のグループに又会った。青森に着くまでずっと話をしていたのを憶えている。青森から急行「日本海」で無事大阪に帰ってきた。時間に無限の余裕があった青春物語であった。それから50年あまり、再びこの地域にやってきた。今度は汽車でなく飛行機で。この地で印象に残っているのは2カ所。美幌峠から見下ろす屈斜路湖の美しい景観であり、もう一つは2度行った摩周湖で会った。1度目は霧で覆われ、何も見えなかった。しかし麓の町まで帰ってきて、ふと後ろを眺めると、霧が消えていた。急いで引き返し、崖を下って、水辺まで行った。摩周湖の美しさと水の透明さを実感した。あのとき沢山撮った写真はどこへ行ったのだろうか。今回も美幌峠は晴天であった。摩周湖までレンタカーで行ったが、その自然の美しさ、神秘さを堪能してくれと言わんばかりの姿で歓迎してくれた。西にハンドルを切って阿寒湖を目指した。鶴雅別荘鄙の座で見たアイヌ人彫刻家藤戸竹喜氏の熊の木彫りに大きな感動を覚えた。繊細なタッチ、それでいて大胆な一刀彫りの彫刻は私の心に大きく響くものがあった。近くに藤戸氏の店があった。彼の作品は地下に展示されていた。多くは非売品であったが、気に入った熊の小品を分けていただいた。同じような作家で、最近亡くなられた瀧口政満氏の作品も素晴らしいという意外に言葉が見つからなかった。アイヌのことはほとんど知識がない。しかし、コタン(集落)、カムイ(神)、イヨマンテ(熊祭)、ユーカラ(叙事詩)、ラッコ、トナカイ等の言葉は私たちの中に根を下ろしている。金田一京助教授によって再び見いだされたアイヌの言語、言葉、詩、伝説、説話、等々は日本民族との同化政策によって、失われつつある。又その言語も今は語る人も限られ、消えつつあるという悲しい運命に翻弄されている。しかしその源は今でも北海道の各地で受け継がれ、名前を残し、誇り高い民族の矜持を保っている。




アイヌ人彫刻家 藤戸竹喜氏 熊の木彫り

私たちの仲間

2017.09.01


8月のお盆の時期になると、幼稚園をいつも支えてくださった人々のことを思い出す。その人が物故者であっても、生存中の人であっても。美木多幼稚園40年、最初先生は3人であった。その3人の先生一人は熊本、二人は南区在住、元気でおられるのが本当にうれしい。今まで250人あまりの先生に支えられてきた美木多幼稚園、誰も亡くなったという報告は受けていない。社会の様々な分野で又は家庭の中でこの世に生まれてきたことの大きな責任を果たしている。残念ながら、安全、安心送迎に尽力を尽くしていただいた運転手の中には鬼籍に入った人も。40年ほど前に最初に私たちの仲間になったAさんは観光バス出身の運転手、2年後には友達のBさんも仲間に入った。AさんもBさんも観光バスの経験を活かして、本当に誰からも信頼され、好かれた運転を心がけていただいた。5年後にはCさんも路線バスの運転手から私たちの仲間に入っていただいた。アームをあげたフォークリフトと軽い接触事故があったが、それ以外は毎日定時運行、何年か後には姪御さんも私たちの仲間に加わった。沢山の先生や職員の姿が走馬燈のように私の頭の中を駆け巡っている。私の母親の初代園長は、本人にはその意識がなかったが、創立期の苦労を一身に背負って頑張った。長年の小学校の経験を生かし、目に触れるもの、身近なもの全てが教材であった。野の花を摘み、生け花として園内に飾り、川や田んぼで生き物を捕っては園児に見せて興味付けをし、好奇心を刺激した。父である初代理事長は田舎育ちの地方公務員であったが、何事にもあまり逆らうことはせず、黙々と仕事をこなした好人物であった。いろいろな人に支えられての40年、私には全てが貴重な勉強であった。諏訪森幼稚園は80有余年の歴史、様々な先生が創立以来大活躍して、今に引き継がれてきた。私がバトンを受け継いで8年、その時の先生は、意見が異なったり、方針が違ったりして、今はもう誰もいない。しかし時々いただく便りによれば、同じ分野で大活躍しているとのこと、働く場所が異なっても、幼児教育に架ける情熱は何ら変わることはない。ますますの健康と活躍を祈るばかりだ。5年目の鳳幼稚園も仲良し先生の集団だ。家から遠いという理由で八尾市の幼稚園に行ったDさんも、そこの園長先生から良い先生を紹介していただいたとお礼の電話があった。今の先生方には先人たちの熱い教えや体験を踏まえ、今いる目の前の子どもたちにその大きな遺産を引き継いでいってもらいたい。8月初め、関空からロスに行った。夕食を食べて、映画を一、二本見ていると到着した。アメリカ西海岸は本当に近く感じた。ロスは砂漠の町、というより、何百キロ先から水を供給されて生きている大都会、トランプ大統領のことをよく言わない人が多いのにびっくりする。通過点のラスベガスはロス以上に砂漠の中に忽然と現れる大都市、ホテルは勿論、飛行場までスロットルマシンが沢山あって、さすがギャンブルの町、しかし生き抜くために、エンタテイメントにこだわり、人を喜ばすために精一杯努力している町という印象は大きかった。カジノに行くためにここに来たわけではなかった。グランドキャニオンに行くための15人乗りの小さなプロペラ機から見た光景は何万年もの間に削り取られた奇岩より、それらの岩の一番下を蛇行して流れているコロラド川が気になった。スペイン語のコロラド(カラード、色のついた)は本当に川の色を表しているのだろうか。次回もし来ることがあったなら、是非観光ヘリコプターでもっと近くに行きたいと思った。昔々絵本で見た幹の中を車が通る程大きな木がある(今は折れて禁止しているそうだが)ヨセミテ公園、あちこちに山火事のあとがある。山火事は自然の摂理に任せていて、消さないそうだ。この公園は緑一杯で、やはり大きな岩が有名だそうだが、(アメリカの有名なスポーツメーカーのマークになっているとのこと)交通渋滞が激しい。総じてアメリカの国立公園は大味の感じである。サンフランシスコでお世話になった日系人(若いときに日本からやってきた)のガイドはお金の話を頻繁にしたのが気になった。シスコでは年収1000万円(10万ドル弱)では下層だそうだ。IT長者が多いシリコンバレー近くのシスコは家賃を含め、全て割高だそうだ。何人かの日系人はおしなべて「自己責任」と言うことを口にした。何事をするにもほぼ自由だが、それに伴う責任は自分でとらなければいけない。その為に自己主張をし、自分を売り込むことも必要なのだろう。日本は何かあれば、国や市町村が助けてくれることが多い。資本主義のアメリカと比べれば、みんな助け合いのいわば社会主義国家であるのかもしれない。自己責任が良いのか、それとも多少自由が犠牲になったとしても庇護を求めるのが良いのか。若い人は前者で、高齢者は後者という人もいる。トランプ大統領賛成、トランプ大統領反対の世論が揺れ動くアメリカ、誰が大統領になってもその偉大さは変わりようがない。すでに2学期が始まっています。9月は入園説明会、10月は園児募集があります。少しでも私たちの仲間が増えてほしい。その願いは切実です。私たちは子どもたちの現状と未来を考え、精一杯努力して参ります。入園させてよかったと心より言ってもらえる保育を目指して頑張ります。よろしくお願い申し上げます。

就学前教育

2017.08.01


普通の会社生活では、ほぼあり得ない長期にわたる夏休み、教育を受ける生徒、学生として、又教える立場の教員として、私の人生の大半でこの夏休みに関わっている。この夏休みが最近大きく様変わりしてきた。学習指導要領もゆとり教育から教科・知識重視教育へ転換が図られ、それに伴い、夏休みの縮小、補修の充実、教員の毎日の出勤、等が実施されてきた。幼稚園でもほとんど欠勤のない先生の為に、変形時間勤務が採用され、夏休みに充当されている。私たちの園は小学校に準じたと言うよりも自主的に、より一層の保育日数の確保、充実を図るために、今年度より8月25日からの保育になります。まだ少し残暑の厳しさが残りますが、環境を整え、保育活動を進めてまいります。さて、過去に入園前説明会やその他の機会に何回も述べた言葉、「就学前に立派な幼児教育を受けた子供は小学校、中学校に行ってもますます伸びていくが、就学前の教育が不十分、あるいは全然ない場合は伸びる率は相対的に低い」この話は簡略化して特徴的に言ったものだが、その根源を辿れば、シカゴ大学教授で、ノーベル経済学賞受賞のジェームズ・J・ヘックマン氏の理論によるところが大きい。彼はその著Giving kids a fair chance, (子供たちに公平なチャンスを与える)日本語版「幼児教育の経済学」で ペリー就学前プロジェクト(1962年から1967年にミシガン州で低所得のアフリカ系の58世帯の子どもを対象に特別教育や個別指導を行う)、アベセダリアン プロジェクト(1972年から1977年に生まれたリスク指数の高い家庭の恵まれない子供111人を対象に実施、当初平均年齢は4,4か月で年間を通じて8歳になるまでプログラムが実施された。その後21歳まで継続され、30歳時点の追跡調査も行われた。)などを参考にしながら、幼児教育の重要性や幼児教育への投資の効果を主張した。IQを高める効果は小さかったが、14歳の時点で学力検査をしたところ、就学前教育を受けた子供は受けなかった子供よりも学校へ行っている率が高く、より多くを学んできたことから、成績が良かった。最終的な追跡調査(ペリー-では40才、アベセダリアンでは30歳)では就学前教育を受けた子供は受けなかった子供よりも学力検査の成績がよく、学歴が高く、特別支援教育の対象者が少なく、収入が多く、持ち家率が高く、生活保護受給率や逮捕者率が低かった。経済学的見地からすると、「貧困に対処し、社会的流動性を促進するために、所得の再分配を求める声は多いが最新の研究では、ある時点で、確実に社会の不公平を減じるものの、それ自体が長期的な社会的流動性や社会的包容力(立場の弱い人々を排除、孤立させるのでなく共に支え合って生活していこうとする考え方)を向上させない」と主張している。事前分配―恵まれない子供の幼少期の生活改善をすることーは社会的包容力を育成すると同時に、経済効率や労働力の生産性を高めるうえで単純な再配分よりもはるかに効果的である。事前分配政策は公平であり、経済効率がいい。これは幼児期の子どもに投資した方が、成長した子供に投資するよりははるかに安くつき、効率的であると言っている。この面では今日本では幼児教育の無償化が言われているのは正しい選択なのだろう。しかしアメリカでは政治が介入することを嫌い、子どもを自宅で教育するホームスクールの自由化を推進して、学校教育を崩壊させようとしている人も多数いる。ホームスクールで教育されている子どもは200万人を超えている。このような人々に彼の主張は全く受け入れられないだろう。ヘックマン教授の意見に反対の人も多い。例えば、物事を恣意的に(自分に都合のよいように)考えているとか。「社会計画の成果の評価が素晴らしく設計されている程、正味の成果はゼロだと評価される」とか。しかしヘックマン教授の提言は一つの大きな方策かもしれない。夏祭りを経て、長い夏休み、この機会にしかできないことを一つでもいいからやり遂げよう。いろいろな場所に行く機会も増えるだろう。しかし決して事故にあったり、病気になったりしてお父さん、お母さんを悲しませないでほしい。そして8月25日には元気いっぱいな姿を先生に見せてほしい。しばしの別れです。

謙虚 or 卑屈

2017.07.01
謙虚 or 卑屈

今年は空梅雨かなと思っていた矢先、どんより曇り、頭を押さえつけられるような空模様、やはり今年も梅雨は日本にやってきた。水の大切なことは十分理解しているつもりだが、戦後すぐには梅雨が来るたびに悲惨な災害がもたらされ、失う人的被害も大きかったが、高度成長が進むにつれ、河川、山林が整備され、損失が少なくなってきた。しかし自然の力にはとても勝てず、今でも謙虚に自然の怒りが鎮まるのを今か今かと待っている。私たちは静かな安らぎの生活環境の中で暮らしたいと願っている。がしかしそれを希求していくと、ある種の矛盾に遭遇してしまう。人は個人の安寧さ、快適さを極度に追求、すなわち働く時間を減らし、余暇を限りなく増やしていくと、どのような結果が生じるだろうか。生活レベルが下がってもよい、働く時間を見直し、家族の絆を深め、自分の時間を出来るだけ沢山持ちたいと願う人には幸いであろう。高校の教師をしていたときの英語の例文を思い出す。Japanese people are (industrious) (industrial).どちらが正解かよく問題に出した。日本人は世界中から勤勉な民族だと言われてきた。果たして今も同じだろうか。疑問に思うことも多い。実際にアメリカ人や他のアジア人で日本人以上によく働く人も多い。というか熾烈な生存競争を繰り広げている。日本は資源のない国であり、その日本が世界で互角に戦い、存在続けるためには、その優れた頭脳を生かしてよく働く以外に方法がない。それが日本の存在を確固たるものにし、世界に大きく貢献できる道と思う。幸い日本人は個よりも集団を大事にし、又強く日本人であることを意識し、団結する力がある。日本人が活躍していると、熱くなって支援したり必死の応援をしたりするし、made in Japan と書かれていたら、優先的に買いたい気持ちになる。自然科学だけでなく、人文科学の分野においても、ノーベル賞を始め、世界的権威の賞を授かっている人は多い。それはそれで私たちにとって、とても大きい精神的な励みになることは自明の理として、特にスポーツ面での若者の活躍が顕著である。テニス、ゴルフ、卓球、短距離、野球、サッカー、バドミントン、そしてモータースポーツの一つの頂点、インディー500を制した佐藤琢磨選手。彼らの活躍ぶりは私たちの想定の範囲を超えて世界的である。アメリカは?ドイツは?中国は?どうだろうか。日本と同じような国民性だろうか。その違いをまざまざと見せつけられた。6月のある土曜日、朝、関空を飛び立って、昼過ぎに上海に到着した。初めての中国であった。長崎県の真上を通り、長江の河口にある大都市上海の浦東(プートン)空港に着いた。目的はなかった。行く場所も決めていなかった。何の下調べもしなかった。ただトムクルーズの映画に出てくるあの背の高いビルのある地域だけは見たかった。空港の案内所で町の中心街に行きたいと言った。外灘(ワイタン)バンドに行けと言った。すぐにつくものだと思ってタクシーに乗ったが50kmは優に離れていた。タクシーで降りた目の前に日本食レストランがあったので、そこで少し食べ、反対側から上に出た。驚きであった。目の前の風景、カーブを描いた大きな河の向こうには、映画で見たのと同じ風景があった。ここは外灘 バンドと言うのだと初めて知った。その風景は私に強い印象をもたらしたが、反面シンガポールに似ているかなと思った。同じJAL機で時差の1時間異なった上海空港を6時に出発して、関空に戻った。慌ただしい一日であったが、それなりの収穫もあった。日本は外国からの観光客を出来るだけ沢山呼ぼうと努力している。空港だけに限らず、町のあちこち、そして便器にまで英語、韓国語、中国語の案内標識がある。外国人にとっては快適であろう。ドイツはドイツ語だけだし、観光客の多いアメリカ、フランス、イギリスでも母国語以外せいぜい英語くらいだ。先月の台湾でも、今月の上海でも日本語の案内はなかった。逆に考えれば、韓国人や中国人は英語も読めないから母国語で表記してあげているのだと、傲慢に考えていると思われても仕方がない。外国は自国にプライドを持ち、その国を訪れる人はその国やその言語を少しでも調べてくるべきと思っているのか。反対に考えれば、日本人は外国人には奇妙にへりくだり、プライドがなく、「おもてなし」と言って過剰な接待、歓迎をしているだけなのか。小さなこと一つとってみてもそれぞれの国情を垣間見ることが出来る。
 7月、July、文月、今月も子どもたちの成長を願って一歩一歩進んで参ります。

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外灘(ワイタン)バンド地区

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上海の浦東(プートン)空港

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関西空港

Formosa 美しい(島)

2017.06.01
Formosa 美しい(島)

15から16世紀にかけての大航海時代、新大陸発見に意欲を燃やすポルトガル船に乗った乗員が台湾海峡に浮かぶ大きな島が、実際そう見えたのだろうか、それとも故郷を離れての寂しさで、うっすらと浮かぶ島影を見て思わずそう言ったのだろうか。その一言がその国の国名にまでなったことがある。私たちにとって、とても近くて、親日的である国、台湾。その国の企業が日本の大企業を買収したとか、卓球の選手がその国の人と結婚したとか、東日本大震災の時には多額のお金を日本に寄付したとか、日本の新幹線が唯一走っている国とか、日本との結びつきも深く、話題も多い。今まで遠くの国を沢山知っているのに、近い国はほとんど知らなかった。まだ中国にも行ったことがない。それにしても台湾は近い。時差は1時間、関空を飛び立ち、四国、宮崎、鹿児島の上空を飛行して、実質2時間あまり、キャセイパシフィック機は台湾桃園空港に降り立った。近い松山空港ではなくて、台北(タイペイ)から遠い飛行場であった。タクシーに乗ってホテルまで行ったが、高速道路経由とはいえ、結構時間がかかった。何の知識も持っていなかった。ただ航空券があったために、土曜日に行って、日曜日に帰ってきただけであった。ホテルは市内中心部にあり、立派であった。時間があったが何も計画がなかった。ホテルで聞き、ネットで調べて、九フンと高層ビル台北101へ行くことにした。九フンは千と千尋の神隠しの映画で有名になったところだそうだ。ホテルは日本語の話せるタクシーを手配してくれた。女性であった。東京に4年間いたそうだ。そのタクシーでも結構遠かった。キールン(基隆)を超えて、山に登っていった。タクシーを降りた所から両側にそれこそ沢山の台湾料理やお土産屋が並んでいる細い道を大勢の観光客と一緒に進んだ。独特の臭いと雑踏で少しつらい道程であった。結局何が沢山の観光客をこの地に引き寄せるのか理解できなかった。比較するのは申し訳ないが、日本にはもっと素敵な景色が一杯あると思った。しかし台湾にあると言うことが、大きな意義を持つのだろう。乗ってきたタクシーで市内まで戻った。台北101が目的地であった。最近のドバイの高層ビルが出来るまでは世界一高いビルであった。ビルには上らなかった。フードコートがあって、いろいろ美味しそうであったが、それもスルーした。夜はホテルで中華料理と決めていた。2F,3Fのブランドショップにも行ってみたが、日本よりも高い値段にびっくりした。今回の目的の一つは美味しい台湾料理を食べることであった。ホテルの中華レストランへ行った。一品は大変高いので、コースにした。それでも日本のホテルと同じくらい値段がした。日本のホテルの中華料理と台湾の人たちの中華料理は基本的に味が違うのだろうか。それとも健康を考えているのだろうか。どの料理も薄味で私にはなじめなかった。中華料理とは本来この様なものだろうか。次の日に、同じホテルのイタリア料理を食べたが、スパゲッティーが三千円以上することにびっくりした。料理は私の嗜好とは異なっていたが、日曜日の朝に行った国立故宮博物院の建物とそこに展示してある中国古来の伝統的芸術品は立派であった。日本でよく書物で見た翠玉白菜もひときわ異彩を放っていた。タクシーでホテルから飛行場まで行ったが失敗した。タクシーの運転手は私を日本人だからJALだと思ってそのターミナルで下ろしたが、私はキャセイパシフィックであった。別のターミナルまで歩き、列車に乗って移動した。迷惑な勘違いであったが、いろいろ勉強できてよかった。それは国民性だろうか。おしなべて建物はきれいでない。リフォームすれば見違えるようになると思うのだが、そんな気はないのだろう。しかし台湾は本当に近い隣人、地政学的な位置関係を変えることが出来ない私たちにとって、これからも大切につきあっていかねばならない大事な隣国だと思った。
梅雨はもうそこまで近づいてきている。雨を鬱陶しいと思わず、大地に恵みをもたらす貴重な天からの授かり物として子どもたちに教えていきます。またこの季節は食中毒も蔓延する時期、食材、調理には十分すぎるくらいの慎重な態度で安全、安心をスローガンに美味しい給食を園児とともに味わっていきます。
水無月、6月、June、 今月も楽しく、元気に、有意義に少しでも園児の成長に寄与できるように努力して参ります。

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ホテル

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国立故宮博物院

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翠玉白菜

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九フン

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九フンは千と千尋の神隠しの映画で有名

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高層ビル台北101

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