ブログ

世間は本当に狭い

2016.02.01


年末年始を利用しての3泊のアメリカ東海岸の旅であった。同伴者は26歳の息子であった。29日早朝、関空を飛び立ち、成田経由で乗ったJL006便はニューヨークへ機首を向けた。何年かぶりのNYCであった。同日の午前10時前にJFK空港に到着したが丁度韓国からの到着便と重なったために、入国審査がかなり混んだ。混んだからと言って審査官を増やすような気配りをするわけでもなく、待つだけでかなり時間がかかった。黒人の審査官が多い中で、その審査官は若い白人であった。お決まりの「目的は?」「何日くらい滞在?」「最近アフリカに行ったことは?」などの質問と顔、指紋などの認証を行った。入国審査に時間がかかったために、荷物はすでにベルトコンベアーの上を回っていた。行きは12時間、帰りは13時間余りのフライトであったが、中国系のキャビンアテンダントが何人か乗っていたのは中国人のお客さんが多いのだろうか。食事をし、映画を見たりしてその時間が早く過ぎた。映画も日本語字幕や吹き替え、NHKニュースやドキュメント、民放のテレビ番組(例えばDr.X)まで備えているのはJALの経営努力なのだろうか。飛行機を降りるときにコメントを書くように求められたので、トイレの事を書いた。何回かトイレに行ったがその度毎にトイレットペーパーの端が取り出しやすいように三角になっていた。彼女ら乗員が空いている時に頻繁にトイレを清掃しているのだろうと。トイレのことと言えば、幼稚園見学に来られる保護者の皆様も真っ先にトイレを見られることが多い。会社勤めをしている時に事業部長から直接聞いた話、松下幸之助から会社を作ってこいと言われ、2億円を渡された。まず第1にしたことはきれいなトイレ作りから始めたと。そう言えばハーバード大学の授業でJALの倒産がテキストに取り上げられるそうだが、その日本航空を救ったのが京セラの稲盛会長で、盛和塾の塾長、共に会社設立の貢献者であり、偉大な経営者、その考えがJALにも徐々に浸透し、トイレもその一例だろう。昔のJALはお客さんを乗せてあげるという考え、今は逆転して、乗っていただくという考えになった気がする。先日京田辺市のゴルフ場に行ったときに、何時も大概一人で行くので、支配人から今日は京セラの前の社長のN氏も一緒ですよと言われた。全然面識のない人なので、他愛ない話をしてその日は終わった。後日、近所の小学時代からの友人にその話をすると「それはNさんか?」という答え、びっくりして聞くと、「彼は鳳の人で、三国丘高校の夜間で一つ上だったが、その当時は友達だった」とのこと。昔は高校に進学するのが3割弱、その上勉強がよくできても昼働いて、夜間に行く生徒が多かった。Nさんも大学院まで行ったそうだ。そんな事を知っていたら話のタネももっとあったのに、後の祭り。世間は本当に狭い。空港からマンハッタンのホテルまでタクシー、この料金は一定で、タクシーによって変わることなく、厳しくコントロールされていて安心。12時頃に着いても、ホテルはまだチェックインできずに、荷物を預けて、二人で近くの「そば日本」で昼食。日本と変わる点は何でも量が多い。日本の1.5~2倍の量。まだチェックインまでに時間があったために、近くのMOMA(ニューヨーク近代美術館)のショップへ、そこで小物を少し買ってホテルへ。46Fの見晴らしのいい部屋、夕方まで少し休み、日本から持っていった電気ポットでカップラーメンを作り、食事。それにしてもNew York で聞こえる会話は英語よりもスペイン語の方が多い気がする。中南米からの移民や観光客がそれほど多いのだろう。夜は寒いが思ったほどの寒さはない。日本でネット予約したブロードウェーのミュージカル「シカゴ」を見る。それなりの迫力があるが「ライオン キング」や「オペラ座の怪人」などに比べると部隊が簡単だ。翌日はレンタカーでハドソン河に架かるジョージ・ワシントン橋を渡って北に向かって1時間、ウッドベリーコモンアウトレット。欧州では価格から税金分が引かれるがアメリカでは外国人であっても+税がかかってくる。ブランド品は日本の方が安いが、ここのアウトレットでは日本のそれと比較にならないほど大きくて、値段が安い。お目当てのものが見つかればhappyだが、日本で依頼された商品を聞くとまだこちらに来ていないとのこと、少し時間がたったものや型落ちの物を販売しているのはどこの国のアウトレットも同じ。NYC最後の夜、バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンが経営するMet Life ビル(昔のパンナムビル)の近くのGrand Central Station駅構内にあるステーキ店に行く。この店で有名なステーキを注文したが、それがワンパウンド、約450g、調味料がよく効き、肉も柔らかくて美味しかったが、今の私にはさすがに量が多く、少し残した。列車の駅の構内にこんな立派な店があるのは驚きだ。翌31日、大晦日、昨日と同じ47番街にあるハーツレンタカーでトヨタカムリを借りた。NY市内でも市外でも、トヨタ、ホンダ等の日本車が本当に目につく。昔はそれほどと思わなかったのだが。ナビ付を借りたが、高速で走っているので、曲がり角やターンする道路を瞬時に判断しなければならず、一度間違えて10kmほど遠回りをした。ほぼ無料だが、制限速度は約100km、何回かパトカーに留められている車があった。NYCを出て、途中休憩を入れて5時間弱、午後2時頃、300km離れたボストンに無事到着した。返却前にハーバード大学へ。そこは塀に囲まれた大学というのではなく、たくさんの建物が集合している開かれた大学という感じであった。ボストンは初めての地であったが、小高い山と川と海に囲まれた,落ち着いた、如何にもアメリカの由緒ある歴史的な都市との印象を受けた。New Year に向けてのカウントダウンを町の中心広場で行っていて、たくさんの人やTVクルーが集まっていた。Seafood が有名という事で港にある「Legal Seafood」という店で、ロブスター料理と海鮮mixの煮込みを食べたが、日本人の口に合う料理であった。ボストンは数多くの大学のある町、いつの日か諏訪森幼稚園出身者もボストンのアイビーリーグの大学に入学するかもしれないという希望を抱いて、(実際に在学しているあるいはした人がいるかもしれないが)、2016年1月1日、JL007便787機はローガン空港から日本に向けて飛び立った。JAL機は採算がとれるのかなと、関係者でもない私が心配するほど、空席が目立った。

2016年、新しい年を迎えました。

2016.01.01


1月を数字で呼んでいるのは私たち日本人だけだろうか。英語でも、仏語でも、西語でも1月を表す別の単語があって、意味が分かるが、first month of the year とは言われない。しかしなぜかこの月から新しい年が始まるということでは一部の国を除いては共通している。人は何かにけじめをつけたい、何かを始めるきっかけがほしい、そんな単純な理由であるかもしれないし、反対に高等な宇宙天文学的な問題であるのかもしれない。私には知識がない。ただ私たちは今、過去、現在、未来へと続く時の流れの中で生かされ、現在が一瞬のうちに過去に変わり、未来は現在に変化していく。保護者の皆さん、2015年はどうだったでしょうか。期待した以上の成果があった。すべてが順調であった。素敵な人との出会いがあった。会社や社会で認められた。うれしいことが多かった。こんなことを言われる人は本当に少数の人かもしれません。大多数の人は何も大きな変化はなかった、素敵なことも、うれしいことも、期待した以上のことも何もなかった。それどころか不幸が続いた、親子の関係が分からなくなった、金銭的な苦労が絶えない、子供の成績が芳しくないと不平を言われる人も多い。ただ、幸福や満足の基準は人によって異なるもの、客観的な物差しなどは存在しない。不幸だと自分で思っていたことが他人から見れば全く幸福なことであり、逆に満足だと考えていたことが、もっと満足を得られるものになっていることもある。すべての不幸を背負って生きているというような顔をしている人もある意味、幸福の領域に達している場合もあり得る。完全に幸せな人がいないかもしれないが気持ちの持ちようではずいぶん変わるものです。この世に生を受けたからには何か社会的貢献も必要だろうし、何事にも意欲的に取り組み、また考えることも要求されている。東大阪市のあるお金持ちの高額納税者に、働かずに生活保護をもらっている人を見ればどう思いますかとの問いかけに、それは一種の必要経費で、なければ社会的暴動がおこるだろうと答えた。その人も納税という手段で社会的貢献をしている。新しい年を迎えて、思うことが多い。1日しか休みがない西欧と異なって、日本の正月は休みが連続する。小さい頃には正月は最大の喜びであった。たぶん大人の人もそうであった。休みが多かったし、華があった。それは貧しいことの裏返しかもしれないが、心が躍った。ごちそうやおこづかいがあった。夢や何とも言えないような楽しみがあった。友との交わりも密であった。今は楽しみが分散し、友との親密な交わりも少なく、無関心の人が増えている。何も正月に限ったことでなく、結婚式でもお葬式でも大きな変化がみられる。これは少子化や高齢化だけでは説明しきれない。日本人は集団から個へ軸足が移った事も大きな変化になっている。例えば、生活が豊かになったために、他人への関心、かかわりが少なくなったとか、助け合うことが昔ほど必要で無くなったとか、人との接触に苦手な人が増えてきたとかである。これも時代の流れだと一言で片づけてしまうのは何か心残りがする。個人的なことで申し訳ないですが、今年は申年、私も6回目の年男になった。1944年、泉北郡美木多村で生を受けてから今まで、今は鬼籍に入った人も含めて、いかに沢山の人々のお世話になったか、又は助けていただいたかは本当に頭の下がる思いでいっぱいです。人は一人では何もできないがそんな人がスクラムを組んで仲間意識に燃えると、とてつもなく大きな力になる。そんな目に見えない大きなパワーに支えられて今までやってこられたことが、私にとって大きな財産、命が燃え尽きるその日が来るまで、たとえ小さくとも何らかの社会的貢献をしていきたい、幼児教育の面でも、高齢者介護の面でも、思いは複雑です。いろいろ言い訳をしても、やはり新しい年には人をわくわくさせるようなものがあります。幼稚園の年長さんはあと3か月でそれぞれの小学校に巣立っていきます。私たちにとっては寂しい限りですが保護者の皆様にとっては一抹の不安と、大きな希望で心が占領されていることでしょう。子供たちは幼稚園で心も体も随分成長しました。人との関わりもうまくなりました。小学校での生活は幼稚園での基礎基本を踏まえて充実したものになり、大きな実を結ぶことになるでしょう。年長さん以外のお子さんはまだまだ私たちの仲間です。一緒に楽しく中身の濃い幼稚園生活を送りましょう。今年も、今年こそ、保護者の皆様、ご家族の皆様の上に、そして勿論、お子様の上にも陽光輝く幸せがいっぱい降り注ぎ、限りない健康でいられますように心より願っています。新年あけましておめでとうございます。

ご厚情有難うございました

2015.12.01


それぞれの国には自慢すべき景勝地や歴史的建造物や世界遺産がある。そして私たちは外国に行って、それらを見学し、記憶にとどめ、その場所に行ったことに満足する。アメリカやカナダには人を圧倒する雄大な風景が広がり、自然界の素晴らしさに驚嘆する。目を南に転じると、中米や南米が広がり、経済発展のために掘られたパナマ運河が存在する。入口と出口はコロンとクリストバルという名前、クリストファー コロンブスに因んで付けられたのであろう。又先住民たちの繁栄の後もうかがい知ることが出来るペルーのクスコの街やマチュピチュの風景を見れば、もう一度ぜひ訪れたいと思う。45年の歳月がその歴史的遺産をどのように変えたのか、非常に知りたいという思いがあるが、私が再訪することは難しいかもしれない、いや今は、その当時そんなに有名でなかったウユニ塩湖の方が人を引き付けるのかもしれない。もっと南に下れば、悪魔ののど笛でよく知られたイグアスの滝、そしてもっと南には豪快に氷河が崩れ落ちるペリトモレノ瑚もある、いわゆるロス・グラシアレス。太平洋岸に目を転じると、エクアドルのガラパゴス諸島も私の行きたい場所の一つ。南米駐在の時に一度考えたが、首都キトー(Quito)から長時間の飛行で諦めた。欧州には世界遺産の40%以上が存在している。歴史が古いせいだろうか?それとも建造物の維持管理がすばらしいせいなのか。それともうがった見方をすれば、観光客集めのために低レベルの場所も世界遺産として認めてきた、あるいは審査人が欧州出身者か欧州贔屓なのかもしれない。ここで世界遺産の分布状況を見ると、ヨーロッパは43.3%、オーストラリア、ニュージランドのいわゆるオセアニアはわずか2.9%、アメリカ、カナダなどの北米は3.4%、パナマなどの中米は6.4%、ブラジル、アルゼンチンなどの南米は6.6%、アフリカ12.8%、イラク、イスラエルなどの中東は7.6%、アジア16.9%、そのうち日本は18件で、アジア170件の中では10.6%。欧州に偏在している。私は別に国粋主義者でもなんでもないが、なるほど他国の世界遺産や観光名所などは私たちの想像を超えて素晴らしいものがたくさん存在するが、考えれば考えるほど、それ以上に日本国にはまだまだ世界に、人々に、認識されていない場所が無数に存在する。そこに住んでいる人の気質、性格、穏やかさ、料理、おもてなし等の特性をも含めて考えると、今はまだアジアからの観光客が多いが、世界中から注目されているのも道理であり、不思議なことはない。何回かアメリカや欧州を訪れたこともあるが、フランス、イギリスより、そして世界のどの国よりも日本がその真なる価値を誇りにしていいと思う。何も欧州が移民であふれ、テロの脅威が大きいからそう言っているのではない。そのテロもいつ日本に押し寄せるかもしれない。日本にも新幹線、原子力発電所、空港、人がたくさん集まる繁華街や集会所が数多く存在する。その気になれば、テロの対象になるかもしれない。その対処法がいろいろ言われているが何とか世界中の人が協力し合う世界が実現できないだろうか。こんなことは笑い話のユートピアと言うのであれば、自分で自分の身を守る工夫をしなければいけない。それはたとえ非常に困難な道であるとしても。いよいよ年の瀬、師走を迎えました。保護者の皆様、この一年はどうだったでしょうか。諏訪森幼稚園、鳳幼稚園、美木多幼稚園の園児たちは皆様の心温まるお力添えのお蔭で、順調に、逞しくそして優しく育って参りました。来年の卒園、進級に向けてあとひと踏ん張りです。まだまだ大きな山もいっぱい残っています。しかしそれらを苦労して乗り越え、最後には大きな喜びの岸にたどり着くことでしょう。今年2015年、皆様から頂いた数々の励ましのお言葉を大きな糧として、これからも精一杯保育活動に取り組んで参ります。今年良かった保護者の皆様、前年に比較すればそうではなかったと思われている保護者の皆様、来年も、あるいは来年こそ、素晴らしい年になりますよう、そして皆様のお子さまが益々健やかで、元気で日々過ごすことが出来ますよう、心より願ってやみません。
本年に賜りました皆様方のご厚情に深く感謝申し上げ、平成27年最後の園便りと致します。

南部藩の矜持

2015.11.01



大阪伊丹空港を飛び立って1時間余り、JL2183便は高度を下げ始めた。それと同時に「当機は約15分後に着陸します」とのアナウンス。眼下には刈り取られたばかりの農地が広がっていた。その時突然機体が揺れ始めた。雲がなく晴れ渡っていた。次の日に乗ったタクシーの運転手によると、機体が大きく揺れ、時には機首が上がったりして空中で翻弄されていたそうだ。機内では「揺れがあるが、飛行に何ら支障がない」という放送が流れたが、乗客にとって、ましてジェットコースターに恐怖を感じる私にとっては不安な瞬間であった。小型機は無事定刻にいわて花巻空港に着陸した。すぐにレンタカーに乗って盛岡に向かった。まっすぐ伸びた東北自動車道沿いに植えられた樹木はすっかり紅葉し、秋の気配が色濃く漂っていた。昔、誇り高き南部藩が治めていた豊沃な大地を切り裂くように今の高速道路がどこまでも続いていた。周りをよく見ると、豊かな農地を見守っているかのように家が点在していた。どの家も大きな杉の木や落葉樹で守られていた。その時、先ほどの飛行機の大きな揺れを理解したように思えた。この地域は防風林が家を守っているのだと。そして宮沢賢治の言う「目に見えない空気の流れ」が強いのかもしれない。一体このあたりの高速道路の制限スピードはどのくらいなのだろうか。100km位で走っていても悠々と抜かれてしまう。高速道路に岩手山の案内、前方に悠然とした大きな山がその雄姿を見せた。盛岡に到着した。昔南部氏が治めた盛岡藩の都はこじんまりとした県庁所在地であった。第31回全日本設置者・園長研修大会が450名余りの参加者の下で開かれた。私もそのうちの一人であった。いつもそうだが、最初にその地出身の有名人かその地が生み出した高名な人についての講演があった。今回は関西であまり知られていないが、岩手では自慢と羨望の人、10年ほど前までは5000円札にその顔が印刷された新渡戸稲造であった。堪能な英語、多彩な人脈、利他の気持ちとクエーカー教徒としての信心、大活躍な様子が話された。次に文科省の幼児教育課長の話があった。幼稚園を取り巻く環境は大きく変化している。その一つは幼児教育の無償化。これは就園奨励費という形で徐々に保護者の負担軽減が図られているが、近い将来5歳児の完全無償化になる可能性は高い。ちなみにイギリス、フランスは無償化が実現しているがアメリカ、ドイツは流動的で、州によって異なっている。イギリスは5歳から義務教育であるがフランス、アメリカ、ドイツは日本と同じである。昭和33年以降、学習指導要領はほぼ10年毎に改訂され、平成20年改訂では、小学校への外国語教育が導入されたが、それにも増して幼児教育の重要性が認識され、幼児教育と小学校教育の円滑な接続の在り方が問われ、幼児期の終わりまでに育ってほしい姿が参考例として報告された。又幼児期の教育、保育に携わるのは幼稚園と保育所であるが幼稚園児数は平成10年を境に保育所児数と逆転している。因みに平成25年は保育所児数235万人、幼稚園児数160万人弱である。これは待機児解消のために国を挙げての保育所増加政策によるところも多い。少子化と保育所激増で幼稚園の経営も厳しさが増していますが、真の幼児教育は何かを見極め、建学の精神に基づき、日々真摯に誠実に幼児教育に取り組み、子供の成長、発達を望む保護者の皆様の期待に応えていく、このことが私たちに課せられた大きな責務であることを深く再認識させられた講演であった。 帰り道、道路工事の現場に何回か出会った。不思議に思って聞いてみると、土木作業従事者が県外に出ないように引き留めるための公共事業であるといわれた。そうでなければ、冬、雪が積もったときにその除雪に従事する人がいなくなるからだそうだ。花巻はまた宮沢賢治の故郷であり、彼は花巻の誇りでもある。裕福な出身で、ほぼ収入がなくても詩作にふけり、好きなことに身を投じるその姿やその文体や内容について反感を持つ人もあるが、裕福なゆえに、自分の立場と農民の悲惨な境遇との対比を通じての贖罪感や他人を思いやる心が人一倍強かった。弱者に対する献身的な態度と強者に対する反感、そんな入り混じった感情が読者に迎え入れられている。土に生きた人として、環境の面からも評価されることも大きい。花巻市の山の上の宮沢賢治記念館で得たものは私にとっては大きい。




33回設置者・園長研修大会




宿泊の宿




宮沢賢治記念館




防風林に囲まれた家

いつか来た道

2015.10.01


岸信介首相の時であった。1960年、三国丘高校1年生か2年生の頃であった。政治的活動も主義主張も何もなかった。最も日和見的な真面目な高校生であったと思う。日米安保条約改定の時期であった。国民には反米の気分も多くあったのだろう。自民党の強行採決に当時の社会党はあらゆる手段を使って抵抗を試みた。本音と建て前は違っていたように思えたが。学者や知識人といわれる人も数多くその中にいた。大学の一部の学生たちで構成する全学連(共産党や社会党系の全日本学生自治会総連合)を中心に国会を二重、三重にデモ隊が取り囲んだ。東京の下町あたりでも学生たちが道路をふさいで暴れまわった。全国的には数百万人が安保反対デモに参加した。大阪の拠点は扇町公園であった。私も参加ではないが、心情的に共鳴して、どのようなものか見に行った。安保条約の中身は全然わからなかった。ただ又戦争が起こる、アメリカ追従になるという漠然とした思いが頭にあった。若者が一時的によく陥る左翼的考えであったのかもわからない。参加した人はどれ程安保条約を理解していたのだろうか。そしてそんなに沢山の人を動かしたのは何だったのだろうか。当時、まだまだ人々には衣食住が充実されておらず、ハングリー的な気持ちがそうさせたのだろうか。そうだとしたら、なぜ大企業や高級官僚、いわゆる日本的エスタブリシュメントの息子や娘が数多くその闘争の中に身を投じたのだろうか。この後10年余りにわたって続く学生運動の端緒であった。しかし大学選びになると、あそこの大学はマル経(マルクス経済学)が幅を利かせているから、就職は難しいとか、左懸かった授業をしているとか言って入試対象から外された。高校生は現実的選択をした。実際そのような教授のいる所は大学の封鎖も長く、大学に行っても中に入れないことも多かった。私も大学に行っても校門が学生によって閉ざされているために、中に入れないことも多かったし、逆に強行突破をしたこともあった。そんな50年前と比較すると、今回のデモは参加人数も十分の一以下で、マスコミ(そのトップは全学連世代だろうか)が騒いでいるだけかもしれないし、実際法律の中身をよく知って活動しているかどうか疑わしい、丁度50年以上前に私がそうであったように。当時も戦争法案だと言われ、今すぐ戦争になるみたいなことを主張されたが、50年以上もたった今でもその兆しはない。私も年を取ったから後はどうなってもよいとは決して思っていない。人が人を殺めて英雄になることはこれからの人にも決してして欲しくないし、命ある限り、平和なうちに、心豊かにその生涯を全うしてもらいたい。欧州では今民族の大移動が起こりつつある。昔、アメリカ、特にニューヨークは人種のルツボだと言われたが、現在のヨーロッパ、特にイギリスやフランスに行ってもその感を強くする。最もヨーロッパ人が日本人と中国人や韓国人との違いが判らないように、私たち日本人にとって、誰が生粋のイギリス人で誰が中東やその他の諸国から来た人と見分けられないが。私たちはこれからも純潔を守っていくのか、それとも移民を奨励していくのか(昔日本人が棄民としてアメリカや中南米に渡った時と隔世の感がある)私たちが結論を出さねばならない宿題は多い。しかし私たちは誇りをもって先祖代々住み続けてきたこの国、日本を守っていかねばならないと言ったら、グローバリゼーションを唱える人に怒られるのだろうか。季節は10月、全てにおいて一年で一番いい時機になりました。私にとっても命が萌える4月よりもすべてを語り尽して散るのを待っているこの紅葉の季節が大好きです。今、子供たちは運動会の練習で精いっぱいです。小学生になってからでは遅すぎです。幼稚園の運動会が一番保護者の記憶に鮮明に残る運動会です。久しぶりにご家族そろって心からの喜びと至福の時を味わっていただきたいと思います。今月も皆様に満足していただける保育を目指し努力してまいります。いつも以上のご支援、お力添えをよろしくお願いいたします。

記事検索

カテゴリー

アーカイブ

- CafeLog -