「主義主張を貫いて」 「阪神タイガース・北條史也君」
2016.06.01
主義主張を貫いて
オバマ大統領を広島に行かせたのは、任期最後になって実現にこぎつけたその主張、主義、希望、思いだったのだろうか。原爆投下を正当化させるアメリカ国民が多い中にあって、その障害があまり無くなった今の段階でしか成しえなかったと多くの報道が述べている。その動機がどんなものであれ、現職の大統領が広島に来て、例え謝罪がなくとも、その思いを述べることは非常に大きな歴史的事実であり、私たち日本人も心から評価するのにやぶさかでない。だれが書いたにせよ、広島で述べた格調高いスピーチの冒頭で、大統領は71年前、雲のない明るい朝と表現した。この年、私は0歳であった。どんなことが進行していたかは知る由もなかった。両親もあまりその事を言わなかった。ただ次期大統領を目指していたマッカーサーの事はよく話した。その71年間にアメリカ大統領は何人いたかを調べてみた。原爆投下を命令したトルーマン、ヨーロッパ戦線で活躍し、マッカーサー打ちのめしたアイゼンハワー、43歳で大統領になったケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(息子)、オバマ。歴史の教科書で学んだトルーマン以外は新聞や、映画、テレビでその名前を聞いたり、顔を見たことがある。アメリカは演出が好きだといつも思う。アメリカに着いた時に見るアメリカ大統領の大きな肖像画、大統領の紋章、町へ入ると目につく星条旗のオンパレード、多民族、多人種を一つにする象徴だ。来年の受験生にとっては試験に出るかもしれないと思って英文と日本文を対訳で勉強することになるかもしれないが、アメリカ大統領のスピーチはなぜかくも格調高いものになるのだろうか。全世界の指導者、警察官を意識しているのか。大統領の就任スピーチにしろ、この文章にしろ、ゴーストライターがいるとはいえ、推敲に推敲を重ね、歴史に耐える文章になっていくのだろう。日本の政治家でこれほど厳かで品位あるスピーチにまだお目にかかれない。ひょっとしたら私の勉強不足かもしれないが。成る程謝罪的な文章はないし、反対に個人を許し、憎むべき対象を位置づけている。日本でよく言う、罪を憎んで人を憎まずの論理であろう。私がと言うより多くの人が共鳴したのは「すべての人の掛け替えのない価値、すべての命が貴重であるという主張、我々は人類と言う一つの家族の仲間であるという根源的で必要な考え」である。そして具体的な事例、今の幸せな家族の日々の生活が71年前に広島や長崎で存在し、それが一瞬のうちに消え去ったこと。歴史は繰り返すと言うが、大統領はこんな悲劇は二度と繰り返してはいけないと言いたかった。それにしても同じ日に終わったサミットはパリ郊外のランブイエ城での第1回以来今年で42回目、30歳以降であったせいか、よく覚えている。最初は今ほどテロやデモの脅威もなく、警備も比較的軽微であったがこんなに厳重に警備するようになったのは主に欧州メインの会議であるせいなのか。物見遊山的な会議で何を話し、何を決めることが出来るか、疑問を持つ人も多いが、高級官僚の果たしてきた役割は、表に決して出ないが、大きなものなのだろう。日本の良い面をちょっとでも理解し、持ち帰ってもらったらそれだけで成功かもしれない。裏方で活躍した警護から会議の立案した人まで私たちは純粋に感謝すべきと思う。


阪神タイガース・北條史也君
平成6年に生を受けた史也君は古くから私の家の近所、周りは北條姓が圧倒的に多い。美木多幼稚園で3年間過ごし、美木多小、美木多中で頭角を現し、青森光星学院高校で1年からレギュラーとして大活躍。甲子園では決勝戦で藤浪擁する大阪桐蔭に惜しくも負けて準優勝、彼の祖父は甲子園出場の度に、バナーや垂れ幕を掲げていた。それほど思い入れは強かったのだろう。今年になって監督が代わり、一軍での出場が増えた。これからますます活躍してほしい。担任やその時に係った先生はファームから応援していたとのこと、末永く活躍してほしい。食中毒が心配な6月、健康に一段と注意して、鬱陶しい梅雨の季節を乗り切ろう。今月も教職員一同力を合わせて頑張ります。


2016.06.01
オバマ大統領を広島に行かせたのは、任期最後になって実現にこぎつけたその主張、主義、希望、思いだったのだろうか。原爆投下を正当化させるアメリカ国民が多い中にあって、その障害があまり無くなった今の段階でしか成しえなかったと多くの報道が述べている。その動機がどんなものであれ、現職の大統領が広島に来て、例え謝罪がなくとも、その思いを述べることは非常に大きな歴史的事実であり、私たち日本人も心から評価するのにやぶさかでない。だれが書いたにせよ、広島で述べた格調高いスピーチの冒頭で、大統領は71年前、雲のない明るい朝と表現した。この年、私は0歳であった。どんなことが進行していたかは知る由もなかった。両親もあまりその事を言わなかった。ただ次期大統領を目指していたマッカーサーの事はよく話した。その71年間にアメリカ大統領は何人いたかを調べてみた。原爆投下を命令したトルーマン、ヨーロッパ戦線で活躍し、マッカーサー打ちのめしたアイゼンハワー、43歳で大統領になったケネディー、ジョンソン、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(息子)、オバマ。歴史の教科書で学んだトルーマン以外は新聞や、映画、テレビでその名前を聞いたり、顔を見たことがある。アメリカは演出が好きだといつも思う。アメリカに着いた時に見るアメリカ大統領の大きな肖像画、大統領の紋章、町へ入ると目につく星条旗のオンパレード、多民族、多人種を一つにする象徴だ。来年の受験生にとっては試験に出るかもしれないと思って英文と日本文を対訳で勉強することになるかもしれないが、アメリカ大統領のスピーチはなぜかくも格調高いものになるのだろうか。全世界の指導者、警察官を意識しているのか。大統領の就任スピーチにしろ、この文章にしろ、ゴーストライターがいるとはいえ、推敲に推敲を重ね、歴史に耐える文章になっていくのだろう。日本の政治家でこれほど厳かで品位あるスピーチにまだお目にかかれない。ひょっとしたら私の勉強不足かもしれないが。成る程謝罪的な文章はないし、反対に個人を許し、憎むべき対象を位置づけている。日本でよく言う、罪を憎んで人を憎まずの論理であろう。私がと言うより多くの人が共鳴したのは「すべての人の掛け替えのない価値、すべての命が貴重であるという主張、我々は人類と言う一つの家族の仲間であるという根源的で必要な考え」である。そして具体的な事例、今の幸せな家族の日々の生活が71年前に広島や長崎で存在し、それが一瞬のうちに消え去ったこと。歴史は繰り返すと言うが、大統領はこんな悲劇は二度と繰り返してはいけないと言いたかった。それにしても同じ日に終わったサミットはパリ郊外のランブイエ城での第1回以来今年で42回目、30歳以降であったせいか、よく覚えている。最初は今ほどテロやデモの脅威もなく、警備も比較的軽微であったがこんなに厳重に警備するようになったのは主に欧州メインの会議であるせいなのか。物見遊山的な会議で何を話し、何を決めることが出来るか、疑問を持つ人も多いが、高級官僚の果たしてきた役割は、表に決して出ないが、大きなものなのだろう。日本の良い面をちょっとでも理解し、持ち帰ってもらったらそれだけで成功かもしれない。裏方で活躍した警護から会議の立案した人まで私たちは純粋に感謝すべきと思う。


阪神タイガース・北條史也君
平成6年に生を受けた史也君は古くから私の家の近所、周りは北條姓が圧倒的に多い。美木多幼稚園で3年間過ごし、美木多小、美木多中で頭角を現し、青森光星学院高校で1年からレギュラーとして大活躍。甲子園では決勝戦で藤浪擁する大阪桐蔭に惜しくも負けて準優勝、彼の祖父は甲子園出場の度に、バナーや垂れ幕を掲げていた。それほど思い入れは強かったのだろう。今年になって監督が代わり、一軍での出場が増えた。これからますます活躍してほしい。担任やその時に係った先生はファームから応援していたとのこと、末永く活躍してほしい。食中毒が心配な6月、健康に一段と注意して、鬱陶しい梅雨の季節を乗り切ろう。今月も教職員一同力を合わせて頑張ります。



未来への遺伝子
2016.05.01

新緑の緑が目にまぶしい。光に照らされたそれは誇らしげにその存在感を示している。 5月、その声を聴くと、頼りげない生まれたばかりの若葉が青年期の力強い、勢いのある大人の葉に成長してくる。この間の体操集会の冒頭で人の命を木々の葉に例えて話をした。理解している子もいれば、そうでない子もいたかもしれない。しかし何らかの形で頭の片隅に残っているはずだ。春になると、今まで枯れて、死んだふりをしていた木々が一斉に芽吹きを始める。薄緑色の小さな若葉は太陽の洗礼を受けて、徐々にその色を深めると同時に形も大きくなり、野山に木漏れ日を作っていく。成長し、最大限のおめかしをして、花や実で私たちに大きな楽しみを与え、次世代へ遺伝子を引き継いでいく。その後朽ち果てて、次の世代の養分になるよう最後の貢献をする。同じように、人類のできる最大で最高の創造物である人も、大きな愛情を持って育てられ、持てる能力に磨きがかけられ、善良な大人に育っていく。そして、純情無垢で怖いもの知らずの、見目麗しき青春時代に、お互い認め合う伴侶を得て、次世代へのバトンタッチの準備をしていく。その後さまざまな教養を後継者に傾注して、自身は大きな期待と満足感を持ってステージから消えていく。ただその期間が1年であるのか、80年であるかの違い、というような事を話した。人生80年は長いか短いかは人それぞれだろう。ある人はもう十分だと言い、別の人はまだまだもっともっとと言うだろう。しかし何歳だから死んでもいいとかいう事はない。死んでよい年齢は存在ないし、許される限り生き続けるのが、人の一生だろう。もし人以外の動植物が話すことが出来るなら、何と答えるか聞いてみたい。瞬間に生きるカゲロウ、命が短いトンボやチョウ、それに私たちのペットになっている猫や、犬、反対に鶴や亀にも聞いてみたい。樹齢何百年の大木にも問いたい。「長く生きてきて幸せだったか」と。人間界では男女共同参画が当たり前のように言われ、女性の社会進出が当たり前のようになっている。事実男性の育児への参加が急激に増えている。しかし家庭を持ち、子どもを育てる仕事は大変な仕事であり、これは女性の持つ種の保存能力に支えられた非凡な能力のなせるわざであり、この面に於いて、家事と育児という大きな仕事を遂行していることを女性は大いに自慢すべきかもしれない。子どもの一挙手一投足に喜怒哀楽を感じているお母さん、相談に乗ってくれる人が身近にいないお母さん、私たちはそんな不安や喜び一杯のお母さんと一緒に、子どもたちの生長を喜び、大きな発展につながっていく努力を一生懸命行ってまいります。私は昔の話をテレビや映画でよく見ることがあります。そして今だったら死なずに済んだのにとか、あの時なら松並木が枯れることもなかっただろうし、海ももっと綺麗だったなと思う時があります。そう、それが事実なのです。しかし当時治療法が分からなかったので死んだことが果たして不幸せであったのだろうか。反対に100年、200年後の人が振り返って、西暦2000年の人はあんな病気で死んだ、今なら何でもないのにと思うかもしれない。それは人の運命であり、限界かもしれない。逆に考えれば、昔の人はそのことを意識しなくても、今よりはるかに環境のいいところ、景色の素晴らしい所で生活していた。人は決められた器の中で生まれ、育ち、精いっぱい努力し次世代に遺伝子を残していく。そしてその中で最高の幸福を求めていく。考えれば小さな生き物であり、また大きな存在でもある。そんな夢みたいなことを考えている5月当初、今月も諏訪森丸は幸せと成長探しの旅に出ていきます。
2016.05.01

新緑の緑が目にまぶしい。光に照らされたそれは誇らしげにその存在感を示している。 5月、その声を聴くと、頼りげない生まれたばかりの若葉が青年期の力強い、勢いのある大人の葉に成長してくる。この間の体操集会の冒頭で人の命を木々の葉に例えて話をした。理解している子もいれば、そうでない子もいたかもしれない。しかし何らかの形で頭の片隅に残っているはずだ。春になると、今まで枯れて、死んだふりをしていた木々が一斉に芽吹きを始める。薄緑色の小さな若葉は太陽の洗礼を受けて、徐々にその色を深めると同時に形も大きくなり、野山に木漏れ日を作っていく。成長し、最大限のおめかしをして、花や実で私たちに大きな楽しみを与え、次世代へ遺伝子を引き継いでいく。その後朽ち果てて、次の世代の養分になるよう最後の貢献をする。同じように、人類のできる最大で最高の創造物である人も、大きな愛情を持って育てられ、持てる能力に磨きがかけられ、善良な大人に育っていく。そして、純情無垢で怖いもの知らずの、見目麗しき青春時代に、お互い認め合う伴侶を得て、次世代へのバトンタッチの準備をしていく。その後さまざまな教養を後継者に傾注して、自身は大きな期待と満足感を持ってステージから消えていく。ただその期間が1年であるのか、80年であるかの違い、というような事を話した。人生80年は長いか短いかは人それぞれだろう。ある人はもう十分だと言い、別の人はまだまだもっともっとと言うだろう。しかし何歳だから死んでもいいとかいう事はない。死んでよい年齢は存在ないし、許される限り生き続けるのが、人の一生だろう。もし人以外の動植物が話すことが出来るなら、何と答えるか聞いてみたい。瞬間に生きるカゲロウ、命が短いトンボやチョウ、それに私たちのペットになっている猫や、犬、反対に鶴や亀にも聞いてみたい。樹齢何百年の大木にも問いたい。「長く生きてきて幸せだったか」と。人間界では男女共同参画が当たり前のように言われ、女性の社会進出が当たり前のようになっている。事実男性の育児への参加が急激に増えている。しかし家庭を持ち、子どもを育てる仕事は大変な仕事であり、これは女性の持つ種の保存能力に支えられた非凡な能力のなせるわざであり、この面に於いて、家事と育児という大きな仕事を遂行していることを女性は大いに自慢すべきかもしれない。子どもの一挙手一投足に喜怒哀楽を感じているお母さん、相談に乗ってくれる人が身近にいないお母さん、私たちはそんな不安や喜び一杯のお母さんと一緒に、子どもたちの生長を喜び、大きな発展につながっていく努力を一生懸命行ってまいります。私は昔の話をテレビや映画でよく見ることがあります。そして今だったら死なずに済んだのにとか、あの時なら松並木が枯れることもなかっただろうし、海ももっと綺麗だったなと思う時があります。そう、それが事実なのです。しかし当時治療法が分からなかったので死んだことが果たして不幸せであったのだろうか。反対に100年、200年後の人が振り返って、西暦2000年の人はあんな病気で死んだ、今なら何でもないのにと思うかもしれない。それは人の運命であり、限界かもしれない。逆に考えれば、昔の人はそのことを意識しなくても、今よりはるかに環境のいいところ、景色の素晴らしい所で生活していた。人は決められた器の中で生まれ、育ち、精いっぱい努力し次世代に遺伝子を残していく。そしてその中で最高の幸福を求めていく。考えれば小さな生き物であり、また大きな存在でもある。そんな夢みたいなことを考えている5月当初、今月も諏訪森丸は幸せと成長探しの旅に出ていきます。
春、四月 諏訪森幼稚園
2016.04.01

遠い異国の地で生まれた春、極寒の北極海を横断し、国境を超え、流氷を俯瞰しながら、長い旅路を終えて、私たちの暮らす祖国日本にたどり着いた。そして休む間もなく、野を超え、山を越え、河川を渡り、飛ぶ様な勢いで私たちの元にたどり着いた。待ちに待った春がやってきたのです。嬉しい、幸せな季節の到来です。今年は少し到着が早いかなと思っていると、日にちを間違えたと考えたのか、寒の戻りできっちり季節を調節している。にくい演出家でもある春、諏訪森幼稚園に86回目の春が音もなく静かに今到着しました。春と聞いただけで、私たちの閉ざされた心が無意識のうちに開き、体に生気が満ち溢れ、躍動感がもたらされるのも不思議なものです。冬の寒い真っ只中に、様々な形で春と言う言葉を多用しているのも、春が私たちを何かから解放してくれるという暗示を得たいためかもしれません。兎に角、今は春を目で見、その近づく足音を耳で聞き、それが醸し出す匂いを満喫するのです。わたしたちが自慢し、誇りに思っている日本の春、日本人だけが悦に入り、喜び、至福の時を過ごしていた掛け替えのない日本の春が、異国の人にもその素晴らしさが知れるようになって、日本の春を愛でる外国人が増えたとか。そんな春爛漫の四月、新入園児の皆さん、「ようこそ諏訪森幼稚園に」、今日から私たちの仲間です。楽しいこと、うれしいことが一杯溢れています。又ちょっぴり悲しくなる事や寂しくなることもあるでしょう。でも大丈夫。皆さんは一人ぼっちでないのです。たくさんの仲間が一緒です。優しい先生も皆さんをじっと見守っています。皆さんはこれから諏訪森幼稚園で2年、3年、4年の年月を仲間と一緒に過ごします。その間に未体験の経験を数多くすることになります。野山に行ったり、山に登ったり、自然と一杯触れ合ったりします。運動会、作品展、音楽・生活発表会などの大きな行事や近くの公園や田畑に行ったりする小さな活動にも喜んで参加します。楽しい行事、期待される行事もたくさんあります。お誕生会にはいろいろな人に来て頂いて、この世に生まれたことを皆で祝福します。皆さんの幼稚園生活が本当に充実したものになるよう私たち教職員は精一杯知恵を絞り、頭や体を働かせていきます。さあ、いよいよ期待と希望の始まりです。私たちにとっても皆さんを幼稚園に迎え入れて、本当の嬉しい、幸せな幕が開きます。保護者の皆さん、お子様のご入園心よりお喜び申し上げます。生まれてこの方、今まで子育てに大変なご苦労をされたことと思います。これからは私たちも仲間に加わって、子ども達が立派に大きく成長されますよう手を携えていきましょう。幼児期は人生の根の部分を形作る大事な時期であると同時に大きな成長も期待できる大切な時でもあります。この時期が将来を左右すると言っても過言ではありません。保護者の皆さんが諏訪森幼稚園にお子様の幼児教育を託されたことを本当にうれしく感じると同時に責任の重さもひしひしと伝わってきます。保護者の皆さんと一緒になって何がこの子たちにとって大事なのか、どうしてあげたらいいのか、経験と体験を踏まえながら、よく考えて実践していきましょう。又同様に子供たちの安全、安心の面にも十分注意を注いでまいりましょう。在園児に皆さん、ご進級おめでとうございます。皆さんはすでに諏訪森幼稚園で1年、2年を過ごしました。その間に先生もびっくりする程、体も大きくなり、心も豊かになりました。知識の量も以前と比べ物にならないくらい増えました。これからの1年でもっと大きく成長することと思います。先生と一緒になって楽しく有意義に幼稚園生活を送りましょう。最後になりますが、在園児の皆さんも、新入園児に皆さんもお父さん、お母さんを悲しませることのないよう、事故にあわないよう、怪我をしないよう又病気にならないよう体と健康に十分気をつけましょう。私たちは保護者の皆様の負託に十分こたえることが出来ますよう、誠心誠意力を尽くしてまいります。今後ともご支援、お力添えをよろしくお願い申し上げます。そして又皆様方がご多幸でご健勝で過ごされますよう、心よりお祈り申し上げます。
2016.04.01

遠い異国の地で生まれた春、極寒の北極海を横断し、国境を超え、流氷を俯瞰しながら、長い旅路を終えて、私たちの暮らす祖国日本にたどり着いた。そして休む間もなく、野を超え、山を越え、河川を渡り、飛ぶ様な勢いで私たちの元にたどり着いた。待ちに待った春がやってきたのです。嬉しい、幸せな季節の到来です。今年は少し到着が早いかなと思っていると、日にちを間違えたと考えたのか、寒の戻りできっちり季節を調節している。にくい演出家でもある春、諏訪森幼稚園に86回目の春が音もなく静かに今到着しました。春と聞いただけで、私たちの閉ざされた心が無意識のうちに開き、体に生気が満ち溢れ、躍動感がもたらされるのも不思議なものです。冬の寒い真っ只中に、様々な形で春と言う言葉を多用しているのも、春が私たちを何かから解放してくれるという暗示を得たいためかもしれません。兎に角、今は春を目で見、その近づく足音を耳で聞き、それが醸し出す匂いを満喫するのです。わたしたちが自慢し、誇りに思っている日本の春、日本人だけが悦に入り、喜び、至福の時を過ごしていた掛け替えのない日本の春が、異国の人にもその素晴らしさが知れるようになって、日本の春を愛でる外国人が増えたとか。そんな春爛漫の四月、新入園児の皆さん、「ようこそ諏訪森幼稚園に」、今日から私たちの仲間です。楽しいこと、うれしいことが一杯溢れています。又ちょっぴり悲しくなる事や寂しくなることもあるでしょう。でも大丈夫。皆さんは一人ぼっちでないのです。たくさんの仲間が一緒です。優しい先生も皆さんをじっと見守っています。皆さんはこれから諏訪森幼稚園で2年、3年、4年の年月を仲間と一緒に過ごします。その間に未体験の経験を数多くすることになります。野山に行ったり、山に登ったり、自然と一杯触れ合ったりします。運動会、作品展、音楽・生活発表会などの大きな行事や近くの公園や田畑に行ったりする小さな活動にも喜んで参加します。楽しい行事、期待される行事もたくさんあります。お誕生会にはいろいろな人に来て頂いて、この世に生まれたことを皆で祝福します。皆さんの幼稚園生活が本当に充実したものになるよう私たち教職員は精一杯知恵を絞り、頭や体を働かせていきます。さあ、いよいよ期待と希望の始まりです。私たちにとっても皆さんを幼稚園に迎え入れて、本当の嬉しい、幸せな幕が開きます。保護者の皆さん、お子様のご入園心よりお喜び申し上げます。生まれてこの方、今まで子育てに大変なご苦労をされたことと思います。これからは私たちも仲間に加わって、子ども達が立派に大きく成長されますよう手を携えていきましょう。幼児期は人生の根の部分を形作る大事な時期であると同時に大きな成長も期待できる大切な時でもあります。この時期が将来を左右すると言っても過言ではありません。保護者の皆さんが諏訪森幼稚園にお子様の幼児教育を託されたことを本当にうれしく感じると同時に責任の重さもひしひしと伝わってきます。保護者の皆さんと一緒になって何がこの子たちにとって大事なのか、どうしてあげたらいいのか、経験と体験を踏まえながら、よく考えて実践していきましょう。又同様に子供たちの安全、安心の面にも十分注意を注いでまいりましょう。在園児に皆さん、ご進級おめでとうございます。皆さんはすでに諏訪森幼稚園で1年、2年を過ごしました。その間に先生もびっくりする程、体も大きくなり、心も豊かになりました。知識の量も以前と比べ物にならないくらい増えました。これからの1年でもっと大きく成長することと思います。先生と一緒になって楽しく有意義に幼稚園生活を送りましょう。最後になりますが、在園児の皆さんも、新入園児に皆さんもお父さん、お母さんを悲しませることのないよう、事故にあわないよう、怪我をしないよう又病気にならないよう体と健康に十分気をつけましょう。私たちは保護者の皆様の負託に十分こたえることが出来ますよう、誠心誠意力を尽くしてまいります。今後ともご支援、お力添えをよろしくお願い申し上げます。そして又皆様方がご多幸でご健勝で過ごされますよう、心よりお祈り申し上げます。
時には傷つき、時には喜び
2016.03.01

どんよりした冬空、玄関を開けた途端、冷気が体を覆ってしまう。身震いすると同時に今日一日の緊張の瞬間だ。予報では快晴を伝えているがその兆しは何も見えない。相変わらず頭上は雲一面だ。ガレージに行くと、さも「早く乗れ」と言っているかの如くに、車がそこで私を待っている。ドアを開け、座席に身を沈め、荒々しくエンジンキーを回す。寒い中でも一発始動、徐々に体が車になじんでくる。何気ない普段の動作の繰り返しに過ぎない行為の裏に、車作りに賭ける技術者の努力とその結晶が感じられる。昔はよく故障した。何回もセルモーターを回してエンジンがかかったことが多い。バッテリーも今と比べて、品質や寿命の面でかなり落ちていた。極端な話、ただエンジンと燃料があれば動くというものであった。車は故障するもの、そうなっても仕方がないという意識があるが、めったに故障しない車に乗っていると、何万分の一の確率でそんな故障に遭遇すると、口汚くののしって、攻撃は車メーカーに向かってしまう。逆説的に考えると、故障する車を作る方がよいのかもと思ったりする。しかし今は電子機器で武装され、高性能、安定性、機能性、快適性、安全性などが求められてきた。中には昔の古いレシプロエンジンにノスタルジーを感じる人もいるが世間の大半は今の車に満足に近いレベルを感じている。幼稚園に着くと、寒空に凛として耐え、その樹形を保って、私たちに心の安らぎと安心感を与えてくれる木々や低木、鮮やかな色と形で園児の到着を待ちわびている遊具に出会う。毎日の出来事と言え、何とも言えない瞬間だ。今日の新聞は国立大二次試験の掲載、今の時期、高校や大学の受験や資格試験の話題が多い。どんな大人も時間がゆっくり流れる青春時代の試練を乗り越えて今に至っている。甘い、苦いもあるだろう。しかしそんなこと全てひっくるめての青春時代、努力がすぐに報われた人もいるだろうし、努力の甲斐もむなしくの人もいるだろう。しかし努力したという事は確かだし、それが真実であれば、その人に努力の跡が蓄積され、次の機会にはもっといい結果が生まれるだろう。私個人的にも努力してそれが実現できた可能性が驚くほど低い。しかしすべて失敗だったわけでなく、上手くいき、満足を得られたこともある。「努力は決して人を裏切ることはない」言い古された言葉だが、巣立ちゆく年長組の皆さんに贈りたい。これから小学校、中学校、高校、大学と進んでいくだろう。少年時代から青春時代、10代から20代の多感な年月、時には傷つき、時には喜び、涙を流すこともあるだろう。しかしどんな時にあっても「努力する」という事を忘れないでほしい。そして付け加えるならば、前を向いて貪欲に生きて欲しい。不運だと言う人も多いが、運は誰にもやってくる。ただその運をつかみ取るのは努力し、意欲的に人生を生きている人だと思う。同時に友を大切にしてほしい。掛け替えのない友を作ってほしい。君たちの人生がより豊かで楽しいものになるだろう。しかし何よりも何よりもまず体を愛しがって欲しい。健康な体があってこそ、実現できることが多い。親を嘆き悲しませることだけは絶対しないでほしい。君たちには未来がある、将来がある、希望がある。何でもできる可能性がある。あるお年寄りが「年を取り返せることが出来るなら、1年を1億で買ってもよい」と言ったが、それほど高価で誰からも羨ましがられる時代が君たちの目の前にある。さあ、勇気を持って進んでいこう。年少、年中組の皆さん、いよいよ年中、年長組です。また一段と心も体も大きくたくましくなりました。来る年月も毎日毎日、君たちのために何ができるか、どうしてあげたらいいか、真剣に考え、行動している優しい先生と一緒になって、日々楽しく過ごしていこう。毎日毎日が君たちの生長発達の大きな過程、立派になってお父さん、お母さんをびっくりさせてあげよう。弥生、3月、いよいよ最後の月、子どもたちと過ごす残された日々を数えながら、今月も頑張ってまいります。この1年間、ご支援、お力添え本当にありがとうございました。
2016.03.01

どんよりした冬空、玄関を開けた途端、冷気が体を覆ってしまう。身震いすると同時に今日一日の緊張の瞬間だ。予報では快晴を伝えているがその兆しは何も見えない。相変わらず頭上は雲一面だ。ガレージに行くと、さも「早く乗れ」と言っているかの如くに、車がそこで私を待っている。ドアを開け、座席に身を沈め、荒々しくエンジンキーを回す。寒い中でも一発始動、徐々に体が車になじんでくる。何気ない普段の動作の繰り返しに過ぎない行為の裏に、車作りに賭ける技術者の努力とその結晶が感じられる。昔はよく故障した。何回もセルモーターを回してエンジンがかかったことが多い。バッテリーも今と比べて、品質や寿命の面でかなり落ちていた。極端な話、ただエンジンと燃料があれば動くというものであった。車は故障するもの、そうなっても仕方がないという意識があるが、めったに故障しない車に乗っていると、何万分の一の確率でそんな故障に遭遇すると、口汚くののしって、攻撃は車メーカーに向かってしまう。逆説的に考えると、故障する車を作る方がよいのかもと思ったりする。しかし今は電子機器で武装され、高性能、安定性、機能性、快適性、安全性などが求められてきた。中には昔の古いレシプロエンジンにノスタルジーを感じる人もいるが世間の大半は今の車に満足に近いレベルを感じている。幼稚園に着くと、寒空に凛として耐え、その樹形を保って、私たちに心の安らぎと安心感を与えてくれる木々や低木、鮮やかな色と形で園児の到着を待ちわびている遊具に出会う。毎日の出来事と言え、何とも言えない瞬間だ。今日の新聞は国立大二次試験の掲載、今の時期、高校や大学の受験や資格試験の話題が多い。どんな大人も時間がゆっくり流れる青春時代の試練を乗り越えて今に至っている。甘い、苦いもあるだろう。しかしそんなこと全てひっくるめての青春時代、努力がすぐに報われた人もいるだろうし、努力の甲斐もむなしくの人もいるだろう。しかし努力したという事は確かだし、それが真実であれば、その人に努力の跡が蓄積され、次の機会にはもっといい結果が生まれるだろう。私個人的にも努力してそれが実現できた可能性が驚くほど低い。しかしすべて失敗だったわけでなく、上手くいき、満足を得られたこともある。「努力は決して人を裏切ることはない」言い古された言葉だが、巣立ちゆく年長組の皆さんに贈りたい。これから小学校、中学校、高校、大学と進んでいくだろう。少年時代から青春時代、10代から20代の多感な年月、時には傷つき、時には喜び、涙を流すこともあるだろう。しかしどんな時にあっても「努力する」という事を忘れないでほしい。そして付け加えるならば、前を向いて貪欲に生きて欲しい。不運だと言う人も多いが、運は誰にもやってくる。ただその運をつかみ取るのは努力し、意欲的に人生を生きている人だと思う。同時に友を大切にしてほしい。掛け替えのない友を作ってほしい。君たちの人生がより豊かで楽しいものになるだろう。しかし何よりも何よりもまず体を愛しがって欲しい。健康な体があってこそ、実現できることが多い。親を嘆き悲しませることだけは絶対しないでほしい。君たちには未来がある、将来がある、希望がある。何でもできる可能性がある。あるお年寄りが「年を取り返せることが出来るなら、1年を1億で買ってもよい」と言ったが、それほど高価で誰からも羨ましがられる時代が君たちの目の前にある。さあ、勇気を持って進んでいこう。年少、年中組の皆さん、いよいよ年中、年長組です。また一段と心も体も大きくたくましくなりました。来る年月も毎日毎日、君たちのために何ができるか、どうしてあげたらいいか、真剣に考え、行動している優しい先生と一緒になって、日々楽しく過ごしていこう。毎日毎日が君たちの生長発達の大きな過程、立派になってお父さん、お母さんをびっくりさせてあげよう。弥生、3月、いよいよ最後の月、子どもたちと過ごす残された日々を数えながら、今月も頑張ってまいります。この1年間、ご支援、お力添え本当にありがとうございました。
世間は本当に狭い
2016.02.01

年末年始を利用しての3泊のアメリカ東海岸の旅であった。同伴者は26歳の息子であった。29日早朝、関空を飛び立ち、成田経由で乗ったJL006便はニューヨークへ機首を向けた。何年かぶりのNYCであった。同日の午前10時前にJFK空港に到着したが丁度韓国からの到着便と重なったために、入国審査がかなり混んだ。混んだからと言って審査官を増やすような気配りをするわけでもなく、待つだけでかなり時間がかかった。黒人の審査官が多い中で、その審査官は若い白人であった。お決まりの「目的は?」「何日くらい滞在?」「最近アフリカに行ったことは?」などの質問と顔、指紋などの認証を行った。入国審査に時間がかかったために、荷物はすでにベルトコンベアーの上を回っていた。行きは12時間、帰りは13時間余りのフライトであったが、中国系のキャビンアテンダントが何人か乗っていたのは中国人のお客さんが多いのだろうか。食事をし、映画を見たりしてその時間が早く過ぎた。映画も日本語字幕や吹き替え、NHKニュースやドキュメント、民放のテレビ番組(例えばDr.X)まで備えているのはJALの経営努力なのだろうか。飛行機を降りるときにコメントを書くように求められたので、トイレの事を書いた。何回かトイレに行ったがその度毎にトイレットペーパーの端が取り出しやすいように三角になっていた。彼女ら乗員が空いている時に頻繁にトイレを清掃しているのだろうと。トイレのことと言えば、幼稚園見学に来られる保護者の皆様も真っ先にトイレを見られることが多い。会社勤めをしている時に事業部長から直接聞いた話、松下幸之助から会社を作ってこいと言われ、2億円を渡された。まず第1にしたことはきれいなトイレ作りから始めたと。そう言えばハーバード大学の授業でJALの倒産がテキストに取り上げられるそうだが、その日本航空を救ったのが京セラの稲盛会長で、盛和塾の塾長、共に会社設立の貢献者であり、偉大な経営者、その考えがJALにも徐々に浸透し、トイレもその一例だろう。昔のJALはお客さんを乗せてあげるという考え、今は逆転して、乗っていただくという考えになった気がする。先日京田辺市のゴルフ場に行ったときに、何時も大概一人で行くので、支配人から今日は京セラの前の社長のN氏も一緒ですよと言われた。全然面識のない人なので、他愛ない話をしてその日は終わった。後日、近所の小学時代からの友人にその話をすると「それはNさんか?」という答え、びっくりして聞くと、「彼は鳳の人で、三国丘高校の夜間で一つ上だったが、その当時は友達だった」とのこと。昔は高校に進学するのが3割弱、その上勉強がよくできても昼働いて、夜間に行く生徒が多かった。Nさんも大学院まで行ったそうだ。そんな事を知っていたら話のタネももっとあったのに、後の祭り。世間は本当に狭い。空港からマンハッタンのホテルまでタクシー、この料金は一定で、タクシーによって変わることなく、厳しくコントロールされていて安心。12時頃に着いても、ホテルはまだチェックインできずに、荷物を預けて、二人で近くの「そば日本」で昼食。日本と変わる点は何でも量が多い。日本の1.5~2倍の量。まだチェックインまでに時間があったために、近くのMOMA(ニューヨーク近代美術館)のショップへ、そこで小物を少し買ってホテルへ。46Fの見晴らしのいい部屋、夕方まで少し休み、日本から持っていった電気ポットでカップラーメンを作り、食事。それにしてもNew York で聞こえる会話は英語よりもスペイン語の方が多い気がする。中南米からの移民や観光客がそれほど多いのだろう。夜は寒いが思ったほどの寒さはない。日本でネット予約したブロードウェーのミュージカル「シカゴ」を見る。それなりの迫力があるが「ライオン キング」や「オペラ座の怪人」などに比べると部隊が簡単だ。翌日はレンタカーでハドソン河に架かるジョージ・ワシントン橋を渡って北に向かって1時間、ウッドベリーコモンアウトレット。欧州では価格から税金分が引かれるがアメリカでは外国人であっても+税がかかってくる。ブランド品は日本の方が安いが、ここのアウトレットでは日本のそれと比較にならないほど大きくて、値段が安い。お目当てのものが見つかればhappyだが、日本で依頼された商品を聞くとまだこちらに来ていないとのこと、少し時間がたったものや型落ちの物を販売しているのはどこの国のアウトレットも同じ。NYC最後の夜、バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンが経営するMet Life ビル(昔のパンナムビル)の近くのGrand Central Station駅構内にあるステーキ店に行く。この店で有名なステーキを注文したが、それがワンパウンド、約450g、調味料がよく効き、肉も柔らかくて美味しかったが、今の私にはさすがに量が多く、少し残した。列車の駅の構内にこんな立派な店があるのは驚きだ。翌31日、大晦日、昨日と同じ47番街にあるハーツレンタカーでトヨタカムリを借りた。NY市内でも市外でも、トヨタ、ホンダ等の日本車が本当に目につく。昔はそれほどと思わなかったのだが。ナビ付を借りたが、高速で走っているので、曲がり角やターンする道路を瞬時に判断しなければならず、一度間違えて10kmほど遠回りをした。ほぼ無料だが、制限速度は約100km、何回かパトカーに留められている車があった。NYCを出て、途中休憩を入れて5時間弱、午後2時頃、300km離れたボストンに無事到着した。返却前にハーバード大学へ。そこは塀に囲まれた大学というのではなく、たくさんの建物が集合している開かれた大学という感じであった。ボストンは初めての地であったが、小高い山と川と海に囲まれた,落ち着いた、如何にもアメリカの由緒ある歴史的な都市との印象を受けた。New Year に向けてのカウントダウンを町の中心広場で行っていて、たくさんの人やTVクルーが集まっていた。Seafood が有名という事で港にある「Legal Seafood」という店で、ロブスター料理と海鮮mixの煮込みを食べたが、日本人の口に合う料理であった。ボストンは数多くの大学のある町、いつの日か諏訪森幼稚園出身者もボストンのアイビーリーグの大学に入学するかもしれないという希望を抱いて、(実際に在学しているあるいはした人がいるかもしれないが)、2016年1月1日、JL007便787機はローガン空港から日本に向けて飛び立った。JAL機は採算がとれるのかなと、関係者でもない私が心配するほど、空席が目立った。
2016.02.01

年末年始を利用しての3泊のアメリカ東海岸の旅であった。同伴者は26歳の息子であった。29日早朝、関空を飛び立ち、成田経由で乗ったJL006便はニューヨークへ機首を向けた。何年かぶりのNYCであった。同日の午前10時前にJFK空港に到着したが丁度韓国からの到着便と重なったために、入国審査がかなり混んだ。混んだからと言って審査官を増やすような気配りをするわけでもなく、待つだけでかなり時間がかかった。黒人の審査官が多い中で、その審査官は若い白人であった。お決まりの「目的は?」「何日くらい滞在?」「最近アフリカに行ったことは?」などの質問と顔、指紋などの認証を行った。入国審査に時間がかかったために、荷物はすでにベルトコンベアーの上を回っていた。行きは12時間、帰りは13時間余りのフライトであったが、中国系のキャビンアテンダントが何人か乗っていたのは中国人のお客さんが多いのだろうか。食事をし、映画を見たりしてその時間が早く過ぎた。映画も日本語字幕や吹き替え、NHKニュースやドキュメント、民放のテレビ番組(例えばDr.X)まで備えているのはJALの経営努力なのだろうか。飛行機を降りるときにコメントを書くように求められたので、トイレの事を書いた。何回かトイレに行ったがその度毎にトイレットペーパーの端が取り出しやすいように三角になっていた。彼女ら乗員が空いている時に頻繁にトイレを清掃しているのだろうと。トイレのことと言えば、幼稚園見学に来られる保護者の皆様も真っ先にトイレを見られることが多い。会社勤めをしている時に事業部長から直接聞いた話、松下幸之助から会社を作ってこいと言われ、2億円を渡された。まず第1にしたことはきれいなトイレ作りから始めたと。そう言えばハーバード大学の授業でJALの倒産がテキストに取り上げられるそうだが、その日本航空を救ったのが京セラの稲盛会長で、盛和塾の塾長、共に会社設立の貢献者であり、偉大な経営者、その考えがJALにも徐々に浸透し、トイレもその一例だろう。昔のJALはお客さんを乗せてあげるという考え、今は逆転して、乗っていただくという考えになった気がする。先日京田辺市のゴルフ場に行ったときに、何時も大概一人で行くので、支配人から今日は京セラの前の社長のN氏も一緒ですよと言われた。全然面識のない人なので、他愛ない話をしてその日は終わった。後日、近所の小学時代からの友人にその話をすると「それはNさんか?」という答え、びっくりして聞くと、「彼は鳳の人で、三国丘高校の夜間で一つ上だったが、その当時は友達だった」とのこと。昔は高校に進学するのが3割弱、その上勉強がよくできても昼働いて、夜間に行く生徒が多かった。Nさんも大学院まで行ったそうだ。そんな事を知っていたら話のタネももっとあったのに、後の祭り。世間は本当に狭い。空港からマンハッタンのホテルまでタクシー、この料金は一定で、タクシーによって変わることなく、厳しくコントロールされていて安心。12時頃に着いても、ホテルはまだチェックインできずに、荷物を預けて、二人で近くの「そば日本」で昼食。日本と変わる点は何でも量が多い。日本の1.5~2倍の量。まだチェックインまでに時間があったために、近くのMOMA(ニューヨーク近代美術館)のショップへ、そこで小物を少し買ってホテルへ。46Fの見晴らしのいい部屋、夕方まで少し休み、日本から持っていった電気ポットでカップラーメンを作り、食事。それにしてもNew York で聞こえる会話は英語よりもスペイン語の方が多い気がする。中南米からの移民や観光客がそれほど多いのだろう。夜は寒いが思ったほどの寒さはない。日本でネット予約したブロードウェーのミュージカル「シカゴ」を見る。それなりの迫力があるが「ライオン キング」や「オペラ座の怪人」などに比べると部隊が簡単だ。翌日はレンタカーでハドソン河に架かるジョージ・ワシントン橋を渡って北に向かって1時間、ウッドベリーコモンアウトレット。欧州では価格から税金分が引かれるがアメリカでは外国人であっても+税がかかってくる。ブランド品は日本の方が安いが、ここのアウトレットでは日本のそれと比較にならないほど大きくて、値段が安い。お目当てのものが見つかればhappyだが、日本で依頼された商品を聞くとまだこちらに来ていないとのこと、少し時間がたったものや型落ちの物を販売しているのはどこの国のアウトレットも同じ。NYC最後の夜、バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンが経営するMet Life ビル(昔のパンナムビル)の近くのGrand Central Station駅構内にあるステーキ店に行く。この店で有名なステーキを注文したが、それがワンパウンド、約450g、調味料がよく効き、肉も柔らかくて美味しかったが、今の私にはさすがに量が多く、少し残した。列車の駅の構内にこんな立派な店があるのは驚きだ。翌31日、大晦日、昨日と同じ47番街にあるハーツレンタカーでトヨタカムリを借りた。NY市内でも市外でも、トヨタ、ホンダ等の日本車が本当に目につく。昔はそれほどと思わなかったのだが。ナビ付を借りたが、高速で走っているので、曲がり角やターンする道路を瞬時に判断しなければならず、一度間違えて10kmほど遠回りをした。ほぼ無料だが、制限速度は約100km、何回かパトカーに留められている車があった。NYCを出て、途中休憩を入れて5時間弱、午後2時頃、300km離れたボストンに無事到着した。返却前にハーバード大学へ。そこは塀に囲まれた大学というのではなく、たくさんの建物が集合している開かれた大学という感じであった。ボストンは初めての地であったが、小高い山と川と海に囲まれた,落ち着いた、如何にもアメリカの由緒ある歴史的な都市との印象を受けた。New Year に向けてのカウントダウンを町の中心広場で行っていて、たくさんの人やTVクルーが集まっていた。Seafood が有名という事で港にある「Legal Seafood」という店で、ロブスター料理と海鮮mixの煮込みを食べたが、日本人の口に合う料理であった。ボストンは数多くの大学のある町、いつの日か諏訪森幼稚園出身者もボストンのアイビーリーグの大学に入学するかもしれないという希望を抱いて、(実際に在学しているあるいはした人がいるかもしれないが)、2016年1月1日、JL007便787機はローガン空港から日本に向けて飛び立った。JAL機は採算がとれるのかなと、関係者でもない私が心配するほど、空席が目立った。