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時の流れの中で

2021.09.00


 日本語の語呂合わせで必死に覚えた英単語、その中には考えたくもないような「死刑だ」の発音の単語があった。そう、cicada, 蝉だ。今年アメリカでその大量発生で話題になった。英字新聞に興味のある記述があった。 The Cicadas are coming. It’s not an invasion. It’s a miracle.のタイトルでマーガレットさんが寄稿していた。Deep beneath the spring-warmed soil, a great thrumming force is beginning to stir. Trillions strong, these insects have been living in the dark since George W. Bush’s first term as president. Now they are ready for the light. They are climbing out of the darkness, out of their own skins and into the trees. They are here to sing a love song. Their only purpose among the green leaves is love.  (蝉がやってくる。それは殺到ではなく、奇跡だ。春の温かくなった地中深くで、コツコツと力強い音がし始めた。数えきれないほどの多くのこれらの昆虫はブッシュ大統領が一期の頃から暗闇で住み続けてきた。そして今、光を求める準備ができた。そして脱皮して、暗闇から樹木に登り始めた。そして愛の歌を歌っている。緑の葉の中での唯一の目的は愛) 実際蝉のオスは求愛のために鳴くが、メスは鳴かない。擬人化したその表現や長年暗闇の中で木の根の養分などで生きながらえていること、そしてその年月の長さを表現するのに、過去の大統領の治世を持ってきたことに惹かれてこの文章を引用させていただきました。日本の蝉はもっと短いというかもしれないが、アメリカの17年蝉だと考えると、日本ではどんな時だったのでしょう?2004年、個人的には還暦を迎えたとき、又鳳幼稚園も諏訪森幼稚園も私たちの仲間になる少し前の出来事。この17年で私達はどう変わったのだろうか。日本は高齢化社会になると言われ、特別養護老人ホームや新しい形態の施設が雨後の筍のように次々建設された。労働力不足が叫ばれ、そのターゲットが家庭にいる主婦層に向けられ、それに伴い子どもを預かる保育所不足が声高に叫ばれ、認定こども園の制度ができ、幼稚園では預かり保育のニーズが高まり、行政からも要求されるようになった。最近になって乱立された老人介護の施設はその形態によっては入所希望者も介護する人も集まらず、倒産件数も増え、大きな問題になりつつある。又幼児教育の世界でもコロナ禍と相まって、出生数が極端に減り、幼稚園や保育所の定員と実員が大きく乖離している場面も見られる。50年前に新設ラッシュだった新設高校の今はどうなっているのでしょう。世界中が少子化に悩まされている。西欧のリーダー、特にイギリスのボリス・ジョンソンとの違いはなんだろうか?同一歩調を求める日本の国民性との違いはどうなのだろうか?詳しくはわからないが、新聞記事などから類推すると、サッカー場に多数の観客を入れて、コロナの感染状況を調べたり、死者が増えない限り、規制を撤廃したり、マスクを着用しない。翻って日本では様々な分野で矛盾ある政策が報告され、人の命よりも法を優先することもある。日本は横並び方式で他人と異なることに違和感を覚え、村八分的に批判することも見られるが、概して寛容的でない。誰もが感じていることだが、法にのっとることは免罪符のように言わるが、臨機応変的な対応が遅れることもある。時には恐れることなく、勇気と決断が必要なこともある。何が良いか誰もわからない。しかし出来るだけ早くコロナ禍が収束して欲しいとの思いは共通の願いです。長く続いた降雨の後は少しは涼しくなると思いきや、真夏がその勢いを取り戻すかのように毎日猛暑が続いている。そんな中でも二学期の大事な、充実した行事が私たちを待っている。子どもたちを信じ、可能性を信じ、様々なことに注意を払いながら、一緒に楽しく幼稚園生活を送ってまいります。食欲とスポーツの秋、今月も思い出作りの保育の旅を続けていきます。尚,9月から来年度の願書の配布が始まります。就学前の教育に関して、私たち幼稚園は絶対の自信と実績を持っています。是非とも幼稚園への入園を考えていただき、又ご近所、お知り合いの皆様にも勧めていただきますようにお願い申し上げます。働くお母さんを応援する制度も充実しています。9月、長月、今月も元気に出発です。

夏が来れば

2021.08.01


 「夏が来れば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空」夏の定番のこの歌は私たちを無意識のうちに尾瀬に誘ってくる。「夏を愛する人は心強き人、岩をくだく波のようなぼくの父親」冬のお母さんに対する夏のお父さん、夏を好きな人の心情は強い心の持ち主だろうか?思わず自問自答してしまう。「あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに」アリスの秋止符、夏にはどんなことがあったのだろうか。夏は開放的ですぐに恋に陥りやすい環境、しかし冷静になって考えれば、それが自分の意志でなかったと苦い思い出に浸る夏の日。いろいろな思いを秘めた夏、2021年、又その夏がやってきた。昨年は行動も制限されての一週間の夏休みでした。今年はコロナの影響はまだまだ残るものの夏休みは従来通りの期間、行動自粛の要請はあるものの、ワクチン接種が進み、少しは行動様式が緩和されつつある。そんな中で密にならない対策を維持しながら、夏にしかできない、この時期にしかできない事に取り組むことも子供たちの成長発達にとっては大事なこと、それと共に家庭にいる子どもたちにとっても、ただ怠惰に夏休みを過ごし、それが過ぎるのを待っているだけでなくて、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんとの良好な関係を築き、子どもたちの節度ある日々の生活が求められています。私たちは子どもたちが病気になり、事故に遭遇しないか本当に心配しています。どうぞ安全・安心にも十分ご配慮お願いします。私は福泉町立美木多中学校出身です。その3年前は美木多村立美木多中学校と呼ばれていました。今の美木多中学校とは名前が無くなった時期があって、縁が切れていますが、今その跡地は住宅地になっています。そこでの3年間は一学年60人の友達と話をしたり、スポーツを楽しんだり、夏になると近くの池でおよいだり、何かあると、光明池まで行ったりしました。少しは家の農業を手伝ったことがありましたが、真っ黒になりながら日々野球をして過ごし、3年生になってから受験勉強を頑張り、この年2人、田舎の中学校から三国丘高校に入学しました。高校では運動部も考えたのですが小説や随筆などのいわゆる書き物が好きだったこともあり、図書部に入りました。そこで手あたり次第本を読み、そのことが確実に何らかの形で役立っているように思います。それ故、高校の教師をしていた時も「本を読もう」「どんな本でもいいから活字を読もう」「それが君たちの生きる力になる」等と何回も言ったことがあります。ネットが発達してきたから新聞、雑誌はいらない、よく言われます。しかし瞬間的に消えるネットのニュースと印刷された新聞のニュースとは大きな違いがあるように思います。マスコミはそれぞれの会社が主義主張を持っていて、偏向とは言わないまでも、中立ではありません。私は読売,産経、日経、The Japan Times(大きなタイトルを読むくらい)の4紙に目を通していますが、今日(7月15日)の読売の時代の証言者のコラムに田村哲夫(渋谷教育学園理事長)さんの話が連載されています。その中で大学時代の恩師丸山真男先生がロマン ロランの一節を引用した次の文章に感銘を受けて、生涯その一節を持っているそうです。「力の限り善きことを為せ、何ものにもまして自由を愛せよ、たとえ王座の階(きざはし)にあるとも、絶えて真理を忘れるな」私たちは日常の雑念に追われて自分を見失うことが多いが、時には心の洗われる文章に接していたい。

日本人の矜持

2021.07.01


 「梅雨晴れの明るい夏空とあなたの来訪を心より待っています。」「梅雨明けももうすぐです。どうか元気にこの憂鬱な時期を乗り切ってください。」の結びの挨拶の6月も終わり、「梅雨明けの夏空がまぶしい日々となりました。寝苦しい夏の夜、皆様ご機嫌いかがでございますか。」の時候の挨拶の7月、文月を迎えました。今月は山開き、海開きが毎年のように予定され、天の川、ロマンいっぱいの七夕祭りは子どもたちにとっては興味津々です。又京都の祇園祭や大阪の天神祭りもカレンダーの上では存在してもコロナのせいで中止、浴衣を着て、うちわをもって、暑い夏をいかに楽しく気分の上ですごしていくか、先人たちが考えた行事が全て中止、いやクーラーがあるから部屋の中で涼しく過ごそうと考えるのとは異次元の考え方の相違、自然の中で生かされ、自然の懐に抱かれ、自然の豊かさからちょっぴりおこぼれを頂く振る舞いが、私たちの中からするりと逃げていく。今年の7月は昨年同様、自然の営みから少しかけ離れた生活様式を強いられている。5年前のリオのオリンピックで、次の開催都市の東京がバトンを受けつぎ、日本中が歓喜の渦に包まれた。その開催が一年延期され、今年7月、いよいよ実現される。私にとっては1964年の第18回に続いての2回目、56年ぶりの日本での開催、それも私の10代と70代の時の開催、個人的には興奮や過度の期待はないが、前回の国威発揚の時とは様変わり、その変容と言えば、国民の大多数や一部マスコミが強く反対していたのに、近づくにつれて、賛成が圧倒的に増えてきた。世界各国から集うアスリートへの敬慕の表れだろうか?日本人のおもてなしのせいだろうか。同時に驚いたことにオリンピック村やその他の競技施設が世間一般で大きな反対のうねりがあった中でも、オリンピック関係の人たちは粛々と開催に向けて準備を整えていた。私たちは表面的に、無責任に反対、賛成を叫んでいるが、それに携わる実務者たちは英知と経験と自負の心と誇りをもって、やるべき仕事を着実に誰に知られることもなく、誰に自慢することもなく、淡々とこなしていた。コロナ禍の中でのオリンピックは普通の何倍もの努力と完遂力が必要だ。しかしそんなことは日本人の力量をもってすれば、たとえ国難だとしても、うまくやり遂げることができる。そんなオリンピックについて人はさまざまなツールを使って発信している。そのほとんどがオリンピックに否定的な意見、しかしどこかの国のように自由な発言が抑制されたり、禁止されたり、または身体を拘束される状態にはならない。発信者にとっては留飲を下げたり、ストレスの発散になっているかもしれないが、それが他人を貶めたり、非難するようになると、看過されない問題が生じてしまう。肉体的暴力は大きな苦痛やダメージを与え、死につながることもある。同じように言葉や文字の暴力は物理的でないが大きな大きな精神的打撃を相手に与え、死に追いやることもある。大多数の善良な小市民にとっては、肉体的暴力以上の苦痛を強いられることがある。私たちは他の動物よりも少し沢山知能を与えられた生き物だ。何もかも自分で判断できた。自分で考えることができた。自分で食べ物の安全や賞味期限を考えることができた。仲間ともうまくやっていけた。困ったときはお互い助け合い、知恵を出し合って困難をくぐりぬけてきた。人はおおらかで疑うことをしなかった。正直で素直であった。今は何の努力もなしに見たり、聞いたりすることやあまり価値のないものに心や時間を奪われてしまった。便利なツールは人間性の破壊かもしれない。ビートルズがインドに逃避し、大金持ちのロックフェラーの息子がボルネオの山奥に逃げ込んだのも人間性を取り戻したかったのかもしれない。そんな鷹揚な日本人を騙したり、利用する人がいれば、それは有害な存在以外の何物でもない。私たちは日本人の持っている人を信頼し、敬う心の優しい人間であり続けたい。

変化と順応

2021.06.01


 最近、子ども庁の創設が議論され、就学前教育や小学校・中学校の問題を一元的に扱うとされ、近い将来本格的に活動することが報道されている。その中で就学前の教育・保育を10年後を目途に、一元化、すなわち、幼稚園、認定こども園、保育所が同一の施設として機能することが一部の委員の間で検討されていると報じられた。その後さまざまな人や団体からの意見があり、その案は一応凍結された。それぞれの三つの組織の生い立ち、役割、仕事内容、目標が違っている。最近、幼児教育を受けた大卒の70%近くが保育所志望だとか。幼稚園は音楽をはじめ、様々な教育活動、仕事内容、時間的制約の面でも忌避されている。しかし私たちは就学前の教育・保育を充実したものとし、立派に小学校につないでいきたい。3施設の役割が異なり、それぞれの施設が存在することに大きなメリットがある。
さて、世の中は刻々と変化を続けてきたし、今も不断に変化している。これからも留まることなく変わっていくだろう。その中で昔の常識が現代ではそうでなくなり、今の常識が未来の非常識になりえる。その変革のスピードに取り残され、順応していかなくなると、世間からの疎外感を味わうことになりかねない。私事で申し訳ないが、高校では理科系に入っていたが、大学は文系を受験した。海外で働きたいとの思いであった。小・中学生頃から宇宙にあこがれ、頭上に浮かぶ無数の星や天の川、北斗七星に心を奪われた。ソ連の人工衛星スプートニクの成功が興味を加速させた。実際私が生まれ、今も住む南区のこの場所でも南米の真っ暗なパンパスの草原で見た空と同じように、無論星の種類が異なるが、無限の数の星が空から降るようであった。毎日、誠文堂新光社の宇宙の本や星座表を片手に持ちながら空を眺めていた。電気のことも大好きで、大学を卒業して入社した会社では輸出用の外国語のパンフレット作りに励み、技術的なこともそれなりに習得に努めた。当時はオーディオ全盛時代であり、どこのアンプやスピーカーがよいとか、トランジスターか真空管か?評論家が好きなことを言い、それがまたマニアに受け入れられた。メーカーは技術を競い、人は新技術を求め、競って購入した。ドルビーもCD―4も開発され、今では見ることのできないAKAIやTEACのオープンデッキが垂涎の的であった。輸出用カセットデッキ付属のデモテープ作りに東京青山にあったビクタースタジオに行ったのもこの頃であった。音楽や楽曲にそんなに精通していたわけではなかったが、その当時の流行の曲やダイナミックで、心に響く曲を選んだ。会社を離れ、教育の世界に身を置き、時代が過ぎ去るままに身を任せていると、急速な技術の発展、アナログならまだしも、デジタルの世界には取り残されてしまった。何よりもむかし根を詰めて読んだ取扱書を読まなくなった。というより面倒くさくなった。今までやってきたのだから、わざわざ取説まで読む必要もないだろうと思うことが多くなった。根気の問題だろう。そしてこの位なら大丈夫と思うことが世間からは高齢者になれば注意散漫につながっていく所以でもある。まだまだ若いと思っていたのが、他人から見れば、そうではない。時代の流れに取り残されないように前を向いて進まねばならない。どのような変化を遂げたのか、少し書いてみたい。1960年代、アポロ宇宙船が月に到達した時代、北欧やアメリカを中心にして、ベトナム反戦運動と相まって、いわゆる性の解放が叫ばれ、自由恋愛やエロ・グロ全盛時代を迎えた。その時に清涼感あふれるLove Story が公開され、清純プラトニックへ少し舵が切られた。同時にウーマンリブ運動がおこり、女性解放が叫ばれ始めた。池田首相の所得倍増計画があり、月給は目を見張るほど増えていった。それに伴い、1ドル360円の固定相場が変動相場に移行し、1ドル200円から100円、それ以下になった。航空券も半額以下になった。外貨を稼ぐ方針が180度見直され、輸入奨励に切り替わった。日本の首相がデパートで輸入ネクタイを買うパフォーマンスも放映された。エズラボーゲル教授によるJapan as No.1 が刊行され、日本人は有頂天になってニューヨーク、ロスやロンドンで不動産や絵画を買いあさった。買えないものは何もないように思えた。バブルがはじけ、失われた10年、20年が始まった。高値で買った不動産は二束三文で買い戻された。絵画もしかりであった。60年代にそんな国に行くことは不潔感をもって見られた韓国や台湾、シンガポールに今や個人所得も抜かれ、世界第3位の立場も危うくなってきた。出生率の低下、人口減、未来への希望が潰えてきた。最近多様性が主張され、男女別姓が大きな問題となり、LGBTも声高に主張されている。それらに何も反対するつもりはないが、様々な急激な運動には常識はどのように対応していくのだろう。社会制度が安定していたころは常識が幅を利かせていたが、今はAさんとBさんの常識が異なることが多々ある。倫理観の違いと言ってもいいのだろうか。うかつにも「それが常識だろう」と言えなくなってきた。私たちは大量の役にも立たない情報に翻弄され、個人情報も白日の下にさらされている。人との共通点は必要だが、流されない自分の意見は世間の常識と違っても大事にしなければならない。何日も早くに始まった梅雨、水の大事さ、怖さを学びながら、この6月を乗り切っていきます。今月もよろしくお願いします。

食欲と給食

2021.05.01


 この間のたけのこご飯についてお子さんの反応はいかがでしたか?たけのこは以前は業者から国産品の調達がなぜか難しくて、食材で唯一中国産でしたが、10数年前に岸和田市内畑から購入が始まり、そこの竹藪も人手不足により、良いたけのこが収穫できないということで、今年はミカン狩りでお世話になっている村木農園の親族のムラタケ農園の村木さんにお世話になりました。村木さんは本来の計画の日であれば、たけのこはもう既に地上に出ているから、黒くなっている。出来るだけ土の中にいるたけのこを提供したいという思いで、調理する一日前に孟宗竹の藪から掘っていただいて、諏訪森、美木多、鳳の給食に使いました。やわらかくて、おいしいたけのこだったと思います。私のまわりにはコメ作り、野菜作り、果物作りで生業をしている友だちや知り合いが沢山いて、道の駅やハーベストにも出荷しているのですが、たけのこを見落としていました。何でもそうですが、スーパーやお店で売っている食品がそのものの本来の味と思っていますが、そうではなくて、もぎ取ったばかりの果物、収穫したばかりの根菜類や新米は本当においしい。少しでもスペースがあれば、野菜作りをしようとする目的は、なるほど健康上の理由もありますが取れたてのおいしさも大きな要因になっているようです。食材が持っているそれぞれの食感だけでなくて、本来のそのおいしさを最大限に引き出すことが食事を提供している私たちに求められる大きな役目です。勿論衛生面での重要性は大切ですが、それをあまりにも過度に考えて、何もかも煮沸処理して本来の味を損なうことを残念に思う。45年前の創立期より業者の給食に頼らずに、食材を選び、調味料を取捨選択し、安全・安心の言葉と共に、おいしさも追及してきた美木多幼稚園の給食、できるだけ旬の食材、信頼できる食品を使い、時には豪華にマッタケいっぱいのマッタケご飯(これだけは外国産)や富山県氷見市直送の冬の寒ブリを使い、子どもたちの食べる意欲を高めることも考えている。国産のウナギを使ったうな丼や混ぜご飯、おいしい牛肉がいっぱいのすき焼き風煮物、子どもたちの残食がほとんどなくなっている。10年前に厨房がなかった諏訪森幼稚園に、厨房の設備ができるまでの少しの間、美木多幼稚園で調理して、ワゴン車で運んだことも今は懐かしい思い出、その後にできた鳳幼稚園も同じように美木多幼稚園の給食システムを導入して今につないでいる。最近ではそれぞれの幼稚園の管理栄養士がカロリー計算をしながら子どもたちの健康の向上に努めている。私たちは外食するときはその料理がどんな食材、どの国の食材を使っているかはわからない。私たちはどうしてもの場合は外国産を使うことがあるが、そんなことは頻繁にあるわけでない。子どもの口に入るものは当然大人の責任です。そんな基本的なことをかみしめながら、これからも愚直に給食作りに励んでいきます。
さわやかな薫風の季節の到来です。木漏れ日が豊かに私たちに降り注ぎ、生きる清涼感や喜びをもたらしてくれます。そんな安らぎの瞬間もいたずら好きなメイストームによって厳しい試練の中に追いやられることがある。それらすべてがあっての人生、若い時に裏日本(日本海側)と表日本(太平洋側)と比べるとなぜ裏日本の人が、外国で言うと、なぜ重苦しい空のドイツ人が陽光注ぐイタリア人よりも成功者が多いのだろうか?必然的に努力を強いられる為だろうか。裏日本と表日本、ドイツとイタリア、それぞれの前者と後者には、環境以外に特筆すべき差はないし、それぞれ能力的にも何ら問題はないが、そう考えさせられるのは、一つには成功者を羨むことがあるのだろうか。子どもたちにとっては少しは慣れてきた5月、この月を無事乗り切ると、幼稚園生活の楽しさが見えてきます。子どもたちがそうなるように精一杯努力を傾注してまいります。5月、さつき、今月もフルパワーで発信です。
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