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閑話休題

2022.08.01


 ある識者は滅亡するあるいは衰退する民族として、次のような例を挙げている。
1. 理想を失った民族。
2. すべての価値をものでとらえ、心の価値を失った民族。
3. 自国の歴史を忘れた民族。
私たち日本人は果たしてどうだろうか。その崇高で高邁な理想を持つ民族として、世界から尊敬と畏怖の念で見られていたのが、近年ともすれば、拝金主義の横行と大いなる利己主義に苛まされている。民族の誇りと矜持を持ち続けることが少子化に悩む日本のあるべき姿と思う。時あたかも凶弾に倒れ、不慮の慚愧に堪えない非業の死を遂げた元首相の主義主張とも符合する。意見は異なっても何とかして民族の魂を揺さぶり、惰眠をむさぼる民族を叱咤激励する姿はだれも否定できない。どんなに怒りがあっても、どんなに逆上しても、どんなに我慢できなくても、人が人を殺めることは、例え戦争であっても、してほしくない。若い青年男女がその先を見ることなく、この世に別れを告げている。西洋と東洋では死生観が異なるといえ、本当に痛ましいことだ。どうか幼稚園のこの子たちが22世紀の世界を見るまで、元気に生き延びてほしいと心より祈らずにいられない。太平洋戦争で命を落とした100万人以上の日本人がもうこんな馬鹿げた殺し合いを止めてほしい、自分たちだけで十分だと彼の地で願っている。終戦の年、私はまだ1歳にもなっていなかった。そんな私が今まで生きながらえてきた事に、祖父母、両親、知り合いの人や近所の人、そして名も知らない多数の親切な人々にいくら感謝してもしすぎることはない。
閑話休題、少し前に伝説的なカーレーサーの中嶋悟の話を読んだ。「レーシングカーは少ない距離の走りに耐えたらいいだけだから、そんなに強い車体はいらない。」驚いた。あんな高速で走っているのだからずいぶん丈夫に作っていると思っていた。実はその逆。若い時より車に少し興味があった。しかし基本的なことを知らなかった。小林旭の「自動車ショー歌」は有名だが、今は存在しない車や会社がある。目という岸和田出身のセールスマンを通じて、日野自動車のコンテッサが家にやってきた。リヤエンジンの優美な車だった。学生時代には親のブルーバードSSSに乗った。当時としては高馬力の100馬力であった。プリンスのスカイラインGTBは垂涎の的であった。月給3万円の時のフェアレディは100万円、しかも現金での販売のみであった。手に負えなかった。20代の会社員の時は堺から門真まで、最初は2ドアのカローラ、その後セリカのリフトバックに乗り換えた。教員時代は日産のローレル2ドアであった。私の好きな車であった。50代ではスバルSTIと三菱ランエボを交互に何回か乗り換え、マニュアルシフトを楽しんだ。エボファイナルは今でも惜しい車だ。25年前のランクル100は盗難にあって、嫌な思い出だ。300にも乗ったが、25年の進歩はどのレベルかよくわからない。GTRは異次元の瞬発力だが、タイヤの溝があまりないので、4WDにも関わらず、スリップが本当に怖い。15歳で50CCの免許を取って以来、幼稚園バスの運転も兼ねて、大型免許も所持している。SDGsの問題もあるが、時計も含め、メカメカしたものには心を惹かれる。今年の夏休みはコロナの第7波が押し寄せている。厚労省は高齢者の接触以外ではマスクの不要をTVで流している。対人や環境にも十分気を付けながら、マスクのない爽やかな夏、生活を楽しみたい。今年の夏は海や山、行楽地へ出かけるのもありかなと思う。毎年休み明けには一段と大きくなった子供たちの姿がまぶしい。病気に罹ったり、事故にあったりすることなく元気に2学期、幼稚園に帰ってきてほしい。幼稚園号は新しい冒険の世界に出発です。尚、厚かましいお願いですが、9月は園児募集の願書の配布、10月は願書提出となっています。ご近所、お知り合いで、対象の園児さんがおられましたら、ぜひとも入園を薦めていただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

和顔愛語

2022.07.01


 母は師範学校を卒業し、小学校の教員として働いた。若いときには満州にも行ったそうだ。何事にも活発な進取の気性に富んだ女性であった。最初は自転車やバス通勤をしていたが、スクーターが発売されると(確か三菱のピジョン)、すぐに購入し、通勤方法がそれに代わった。家の前の坂にその音が響くと、帰ってきたことがすぐに分かった。勿論昭和30年代にそんなことを許す父親も寛大であった。赤坂台小学校を定年の一年前に退職して、美木多幼稚園設立と同時に初代園長に就任した。私から見ると、何事にも意欲的で、優しく、近所の子供を集めては文字や書道などを教えていた。母はお花、お茶、書、体操などが得意で、特に書道に関しては年老いてからもその道の先生に教えを請い、数多くの作品を残した。私は書を書いているのを知っていた。ある時母が表装の話を私にしたが、私の中では想定外の高さの費用であり、その希望を実現させてあげることができなかった。それ以降その話をすることはなかった。あの時の医者の対応に満足したわけではなかったが、国立大阪病院で2年間、ただ天井を見上げるだけ、話すことも手を動かすこともできずに過ごした。ただ瞼を少し動かし、顔の表情を変えるだけの生活であった。頭はしっかりしていたので、余計悲しみが募った。もし追体験できるならば、表現するすべての手段を奪われた気持ちはどうだったのか、どの位残酷なことなのか、知りたいと思った。その母の死後、いろいろ整理していると、たくさんの書が出てきた。表装をすることを拒否されたそれらは、いつかは立派な額に入れられて、飾られることを待ち望んでいるように私には思えた。表装をする、額に入れる、それ自体は決して安くはないが、奢侈品を買うことを思えば、大きな額ではなかった。私は自分の罪滅ぼしの意味でも、母への敬慕の意味でも、残されていた全ての作品を表装し、私の関係する幼稚園や老人施設に掛けさせていただいた。その中に「和顔愛語」があった。母の大好きな言葉であり、作品も多かった。額に入ったその言葉は毎日見慣れているせいか、何も意識することはなかった。時々いい言葉ですねと言われることもあったが、「ありがとうございます」と通り一遍の返事をするくらいであった。しかし人は思いがけないときにふと目についた柱にかかった額の文句などにはっと心を打たれ、目を見張ることが少なくない。そしてそれが思いがけない時に思い出され、心の養いになり、決断する時の大きな力になる事もある。今回の私はこの言葉を見て、母を思い出し、優しさを知り、巧言令色でなく、笑顔になり、優しい言葉,いとおしい言葉で人に謙虚に接することの大切さを再認識することになった。私が生まれてきたのは勿論父親や母親のおかげ、もっとさかのぼれば、先祖代々のおかげだろう。
この事について、日本の戦前・戦後の首相等に大きな影響を与えた思想家の安岡正篤は次のように述べている。「わが幸福は祖先の遺恵、子孫の禍福は我が平生の所行にあること」「平生、己を省み、過ちを改め、事理を正し、恩義を厚くすべし」「成功は常に苦心の日に在り、敗事は多く得意の時に因ることを覚えるべし」「用意周到なれば、機に臨んで惑うことなし」今まで何事もなかったような物が急にある瞬間大きな意味を持つことがある。そんな思いを抱くことが多い。一種の好奇心を持ち続けているせいだろうか。
熱い暑い日々が続きます。どうぞご家族の皆様にはご自愛していただき、今しかない2022年の今月も有意義に充実して過ごされますことをご祈念いたします。
7月、文月、July、子どもたちの健康と幸せを願い、そしてコロナ撲滅を目指して Bon Voyage.

団塊 ビートルズ 全共闘 の世代

2022.06.01


 久しぶりにアメリカでの出生数が増えたとのニュースが報道されました。コロナ下での自粛や忍耐生活に対する反動ではないか?ちょうど世界大戦の終戦後に各国でベビーブームが起こったように。この現象はアメリカ独自のものか、それともこれから出産ラッシュが世界中で続くのか?日本の昨年の出生数は80万人余り、現状では日本が日出る国から日没する国と揶揄されても仕方がない。適齢期人口の減少、晩婚化、子供を欲しがらない、経済的な悪条件、未来に対する悲観的な考え、自由に生活を満喫したい、漠然とした未来への不安、子どもの人生に責任を持てないこと、様々な要因が浮かび上がる。戦前の産めや増やせや政策は現在には即しないが、子供を持つ喜び、子供を育てる喜びや楽しみを享受する人が増えてもいいのではないかと思ったりもする。その絶望感の裏返しで、強い意見を言うと、パワハラだとかセクハラだと声高に非難される。誰もが本音で本音のことを言うのが難しくなった今の日本、言葉を慎重に選びながらの発言、ダイナミズムに欠けた日本の将来は私たち自身の双肩にかかっている。村八分にされない程度で、自分の意見を大胆に発することも必要だ。ところで、それまで毎年200万人位の出生数が戦争が終わると、270万人に増えた。1947から1949年。いわゆるベビーブーマーの時代、「団塊の世代」とも「ビートルズの世代」とも「全共闘の世代」ともいわれる。日本だけでなく、欧米でも同じ現象が起こり、「ヒッピー」の言葉がはやり、ベトナム反戦運動が最盛期を迎え、様々な反戦歌やフォークソングが一世を風靡した。月から石が届き、「love story」の映画がヒットした。私は団塊の世代より少し上ですが、270万人の勢い、活力はマグマのように大きなうねりとなり、現状の社会に対しての大きなはけ口を求めてさまよい続けた。大学に行っても校門が閉ざされ、ロックダウンの状態であった。毎日警察とデモのせめぎあいがテレビで流れ、それに参加していた有名大企業のエリートの息子たちも大勢逮捕された。中には悲惨なリンチ事件もあったが、デモや闘争はほとばしるエネルギーの発露となっていた。共産党系や社会党が大きな勢力であったが、若いときによく陥る憧憬のようなものであった。勿論それに組しない学生も数多くいた。企業や公務員に就職し、管理職に進むにつれて、それらは青春の時代に罹るハシカのようなものと考えられた。しかし毎年270万から260万人が社会に出てくる迫力、熱量は大きく、経済の成長とともに、それを受け入れる大きな度量が日本国にあった。オリンピック、万博、新幹線、高速道路、新しい技術の創造や品質管理の追求、海外市場の開拓、夢があり、希望があり、企業や社会の応援があった。学生運動に費やした膨大なエネルギーを今度は企業戦士として、大いに発揮した。正直言って、この団塊の世代を社会は吸収できるのかと心配されたが、社会も、企業もものの見事に受け入れ、日本発展の原動力となっていった。一部まだ過去を引きずる人もいるが、全体は穏やかな、心優しい日本人に変身した。日本社会は罪を犯した人には厳しい見方もある半面、すべてを受けいれる寛容さもあった。今は退職しているとは言え、現役世代の時の幹部の中には学生時代の活動家も多い。ハシカがハシカで終わればいいものを、慢性病になるのであれば、困ったものだ。団塊の世代は後期高齢者に差し掛かった。あと何年かそのような状態が続くであろう。社会保険、医療保険、介護保険など等、様々な面で大きな負担が現役世代にもかかってくる。世は先送りとまで言わないが、一時期の日本のダイナミズムの形成に大きな貢献をした団塊の世代にも、豊かな健康で文化的な老後を送ってもらいた。その為にはただ援助を受けるだけでなく、それに感謝し、積極的に対応することも必要なことだ。同じ大地に生まれ、同じ空気を共有する私たちは同じ仲間として、お互い尊重と礼節の精神を持ち続けたい。
「上に居りて驕らず、下と為りて乱れず」人の上に立って傲慢にならず、人の下となっても秩序を乱すようなことはしない。 私たちには限られた命しかない、言い換えれば、私たちの命は有限。その中で切磋琢磨して、楽しく人生を過ごしてみたいものだ。
6月、水無月、アジサイの月、そして 幸せになるというJune brideの月、園児たちと一緒にたくましく前進していきます。
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