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私達に残せるもの

2019.06.01


 一人の年老いた職人が握っている小さな堺の寿司屋さん、そんなに商売が繁盛しているわけでないが、それなりに精一杯ネタを揃えて意地を見せている。齢70歳あまり、山口県出身のすし屋のオヤジだ。私がアナゴの握りを注文したときにそのオヤジが言った言葉、「アナゴは触った瞬間、いいアナゴかどうか分かる。アナゴは大阪湾や堺沖でたくさん獲れるのに、いいアナゴは京都や大阪の高級料亭に直ぐに高値で出荷されて、わしらのところには地元なのにいいアナゴはまわってこない。たまにいいアナゴがあったりすると、何か儲けた気がする。」と。京料理は美味しいとか、大阪の高級料亭はミシュランの星に輝いて、素晴らしいとか言われているが、料理は所詮食材が80%以上(私の独断)、腕前に頼る部分はわずか10%あまり、日本航空の機内食で仰々しく有名シェフの作った料理が出てくるが、宣伝ほど、美味しくはない。反対に安い店でも食材が立派であれば、美味しい一流の料理が作れないわけがない。今は前ほど頻繁に行かないが、河内長野の蕎麦屋さんとは40年以上前からの知り合い。店はそんなにきれいでないし、実際見た目を重視する今頃の若い人には敬遠されそうな雰囲気、しかし私はここの蕎麦が好きだ。ぞんざいな作り方のように見えるが、出汁もそばも美味しい。なにがそうさせるのか?それは甲府を出て、東京経由で河内長野にたどり着き、蕎麦一筋に半世紀、実直に努力してきたせいかもしれない。「屏風と食べ物屋は拡げたら倒れる」という言い伝えを守っているかどうか知らないが、店の風格、たたずまいは昔と変わらない。同じように河内長野の小さな中華料理店も半世紀前から知っている。ここはご夫婦で切り盛りしているそれこそパパ・ママ料理店、しかしラーメン、焼き飯、餃子など等、味は昔のままだ。昭和、平成、令和 の時代を超えて生き永らえたのは地域の人やファンの人もあるが、料理する人の生真面目さ、実直さ、そして美味しいものを作って人に喜んでもらいたいというサービス精神、上から目線でないが、そんなものがあると思う。つい最近読んだ記事の中に、俳優の世界にもこんなことがあるのかと思った。里見浩太朗さんは舞台で元気に立ち回りをしている83歳と思えない元気さだ。リーガルハイや警視総監では渋い演技を披露している。しかし他の有名役者のようにバックや支持者があったわけでない。又主役を張ったりしていないし、脇役に徹していた。過去に何かとハプニングあったにせよ、長く真面目に役者の仕事に取り組んできた。そのせいばかりとは言えないが、浮き沈みの多いこの世界で有頂天にならずに生き延び、今も活躍している。彼の最近言ったチクリの言葉「ゴルフよりも舞台のほうが面白い」。最近、スタートアップ企業が何かと話題になっている。群れを嫌って企業から、仲間から離れて、あるいは助けられて、会社を創設する。国も、社会も、そして大企業までもがそれを後押ししている。一度失敗しても、再挑戦の機会を与えている。そんな人を意欲的と考えるか、野心的、好奇心に富んだ人と考えるか、あるいはリッチを夢見て挑戦する人と考えるか?群れの中にいる人よりも優れていると思わないし、どちらも同じように功罪があるかもしれない。しかし10%にも満たないスタートアップの企業の成功者になって大金持ちになったらどうだろうか?最近どの分野でも、少し上手くいけば、その企業を売り飛ばしてお金を稼ぐ人がいるが、そんな人の会社に対する、働く仲間に対する、愛情とはどのようなものだろうか。若くして成功し、資産を形成し、その先何十年、どういう暮らしをするのだろうか。上手くいくのだろうか。何もその年代にふさわしい成功者としての生き方を賞賛しているわけでないが、本当に成功者として称えられることを望むのであれば、この世に生きた痕跡を残したらと思う。人はいつか死ぬ。免れることはできない。何を残せるだろうか。名前を残したい人は学校に寄付をして、何とか記念館を建てることも、名前を残したくない人は無名で多額の寄付をする。財団を作って後進を育てる人もいるし、芸術家は、例えば江戸時代の伊藤若冲のように、その芸術作品をこの世に残せるし、思想や経済理論を残せる人もいるだろう。私達大多数はそれでは何を残せばいいのだろうか。只一つ言える事は私達が受け継いだ美しいこの日本、この地球をこれ以上穢れることのないようにして、次世代へ引き継いでいくことだろう。いくら金持ちが立派な建築物を寄付したからと言っても、せいぜい100年、仁徳天皇陵や履中天皇陵の前方後円墳の歴史に及ばないし、それも、これからの何千年、何万年の歴史の中ではいつまで存続するか分からない。今を一生懸命生きる次世代のエース、子ども達に、マクロ、ミクロ、両方の面でも大きな期待をしたい。

ケイオス・混沌とした世界

2019.05.01


 動体視力がついていけないほど、周りの景色が瞬間に変わっていく。340kmまで刻まれたスピードメーターにはまだ十分な余裕があり、タコメーターにいたっては3000回転を過ぎたばかり、IHI製のツインターボから加給された燃料はV6,3800cc、最高出力570HPのエンジンに吸い込まれ、身震いするような心地よいエグゾーストサウンドを響かせながら吼え続けている。拙いながら、ハードボイルド流の表現を借りれば、このようになるのだろうか。今は亡き大藪晴彦はその著の中で「羊の皮を被った狼」と表現した。小さくて弱いが、一度アクセルを踏むと、表情は一変、羊が狼に変わる性能を発揮する。見かけは何の変哲も無い普通の車なのに、足回りを強化し、エンジンを高性能に変えて、いざというときに、その能力を引き出すことを喜びとしていた。一種の「能ある鷹は爪を隠す」だろうか。今は外国の車も含めて、高性能であるというエンブレムをつけて、自分の主張を押し出している。どちらがいいのだろうか。それにしても、環境の問題が影響しているのだろうか。燃費の問題だろうか。他に安価な手段がたくさんあるせいなのか。若者の車離れ、特にスポーツタイプの車への関心が薄れている。カーレースを見る人はそれなりに多いのだが。電気工事の人に家の近くの山中でダイハツのミゼットを運転させてもらったのが最初だった。その後高校1年生の昭和35年(1960年)、なぜかこの辺りは高石警察の管轄だった、その警察に行って、原付免許をもらった。私の運転免許の原点だ。三国丘高校には最初の半年間、自転車とバイクで通学したが、それ以降は原付バイクで行った。大学生の頃、優美な日野のコンテッサーの後にブルーバードSSSが家にやってきた。この頃、スピードに憧れ、鈴鹿サーキットに行ったこともあった。係員に気をつけてくださいよと言われ、サーキットに入り、高速でバンクを走りぬけた。しかし今の基準からすれば、100km/hを少し上回ったくらいであった。その当時レースで常勝のプリンス・スカイラインGT-Bに本当に乗りたかった。しかしとても学生の私には手を出せるものではなかった。会社に入っておとなしいカローラに乗って門真まで通勤した。何の不満も無かったが、日産のフェアレディにあこがれた。しかし日産はこのモデルだけは現金販売を押し通した。初任給3万円の私には100万円の車はまさしく高嶺の花であった。今の売れ筋はSUVかONE BOX、セダンやスポーツタイプの車は憧れても実需が無い。メーカーも開発意欲を削がれているようだ。環境問題、燃費の問題、女性に一段と優しくなった男性の問題、家族構成や家庭円満の問題、大きな1-boxにひとりで運転している姿を見ると、そしてほとんどの場合はそうなのだが、効率がよさそうに見えないのだが。
大学生の頃、北海道旅行で知り合った友を訪ねて、友人と二人で福井に行った。高速道路の無い時代、大阪から福井までの国道8号線は車は少なかったが、道もまだまだ悪かった。今のようにナビも無い時代、住所が分かるがそれがどこにあるか分からない。近くで小学生に道を聞いた。日本語が分からない。方言そのままであった。まだまだマスメディアが発達していないこの時代、それが当たり前であり、日本のよきイメージもそのまま残っていた。異質のものがいっぱい残っていた。困っていたら誰かが助けてくれたし、田植えや稲刈りは近所、隣組の人が総出で助け合って農作業をした。それが当たり前であり、損得の問題ではなかった。そんな善意の人たちの行為を逆手にとって、金儲けをしたり、事業で成功した人もいるが、そんなことには全然与しない、立派どころか卑怯のそしりを免れない。欧米ではどうだろうか。支配者を殺害し、残忍で、厳しい方法でインカ帝国を支配していったスペインやポルトガル人は極端だとしても、自分を主張し、自分の意見や考え方を述べ、自分の立場を守り続けねばならなかった。その為に人と争うことは正当化された。明治の開化とともに、欧米の思想は尊重されたが、教養ある一部の人の間だけでの流布であった。それが最近、目を通して、耳を通してのマスメディアの攻撃により、いつのまにか欧米流にされていった。私は何も西洋の思想やシステムを否定するものでないが、日本固有のものも大事に慈しみたいと思う。そういう意味で、万葉集からいただいた「令和」はある意味日本人の魂を揺さぶるものになった。退職後、万葉集の英訳を趣味として活動している昔の同僚はこの令和の由来は当然知っていて、なぜか興奮していたのは印象的であった。彼は何も国粋主義者でもない。ただライフワークとしていたものが世間の脚光を浴び、嬉しさに堪えきれなくなった。同じようなことが国についても言えるかもしれない。国は国民が羅針盤を操作するのだが、現実には、国民の負託を受けた代理者がさまざまな決定をし、国の運命を決めている。明治維新、日露戦争、太平洋戦争、大きな節目には必ずそこに大きな影響を与えた人がいた。平和を愛する日本人と好戦的な日本人、私達の中には、相矛盾する二つの血が混じりあって流れているのだろうか。旧石器時代から今までの歴史の中で、迷い、戸惑い、間違いを犯したことがあったとしても、概ね私達の先祖は持ち前の英知で次の世代に受け継いできた。受け継がれたバトンはより洗練され、私達の願いをたくさん込めたバトンとして、次の世代に繋いでいかねばならない。幸い今の世界は1国での反乱は不可能だし、好き放題に言っていても、それが大きなエネルギーに変わることはない。私達の今の幸せは過去の人の努力の賜物であることを心に銘じたい。私が大学生の頃は大学紛争の真っ只中であった。しかし今になっても過去を引きずっている活動家はほとんどいない。ほろ苦い思い出になっているのだろう。時代が変わり、思想、信条が変化していく。100年の幼稚園の世界も今、大きな渦に飲み込まれようとしている。

仲良く交流する夢の世界

2019.04.01


 41年間歌い継がれてきた私達の幼稚園のオリジナルの「お別れの歌」、あの若かりし頃に子どもを思い、保護者の気持ちに寄り添い、子どもの活動や成長を願って、思いを込めて作った「お別れの歌」、同じ内容で、同じリズムで41年間、歌い継がれてきたことを考えると、思わず目に涙が浮かび、卒園式では無様な姿を見せてしまいました。しかし何かしら感動できることを持てて、幸せであると思う。保護者の皆様も人生で感動する思い出、場面、情景、達成感、喜び等、たくさんお持ちだと思います。例えばお子様の誕生、学校生活の始まりの入園式も感動の一シーンではないでしょうか。感動は何も大きなことばかりとは限りません。ほんの小さな些細なことであっても、そして他人がそれをほんの出来事と片付けることになっても、その人にとっては記憶に残る感動になることもあるでしょう。感動には基準が無く、大小もありません。私達は喜びの中から感動が生まれ、心が震え、生きている実感が伝わってきます。
新入園児の皆さん、ご入園おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます・。幼稚園では皆さんが来られることを今か今かとお待ちしていました。「ようこそ私達の仲間へ」の思いが募ります。今まで過ごしてきた環境とは異なる環境が始まります。保育の世界から教育の世界へ。そして人の根幹を形作る幼児教育の世界へ。未知の世界から可視化の世界へ。不安な世界から安全・安心の世界へ。あなただけではありません、誰もみんな心配で、不安なのです。しかし不安な人が集まって、友達になり、強力な人間関係が形成され、自信あふれる活動が生まれます。幼稚園が素敵な出会いの場所になり、幼稚園に行くことが当たり前のことになり、楽しくなっていきます。それは人によって早い、遅いの差があるものの、ほぼ同じような形となって収束していきます。その中で独自の個性が生まれ、ユニークな存在として活動することもありますが、優しさが生まれ、みんな友達の世界になっていきます。幼稚園では何も心配は要りません。冒険心富んだ遊具、優しい先生、花や緑の環境、さあ楽しい園生活の始まりです。
りんご、年少、年中組であった皆さん、ご進級本当におめでとうございます。入園以来過ごしてきた幼稚園で、皆さんは心身ともに大きな成長を遂げました。見違えるほど立派になりました。今まで大好きなお友達と大好きな遊びやさまざまな活動をしてきました。りんご、年少組であった皆さんは今年は大きくなっての活動です。まだまだ知らない魅力が幼稚園にいっぱいあります。保育室に、園庭に、まだまだ見つけていない宝物もたくさんあると思います。多くの知らない優しいたくさんの先生に会えるかもしれません。又新しく幼稚園に入園してきたお友達に、幼稚園のことをいっぱい教えてあげてください。頼りがいのあるおにいちゃん、お姉ちゃんに、皆さんならきっとなれます。そして年中組から年長組に進級した皆さん、いよいよ幼稚園で一番上の学年になりました。本当に年少、年中組さんから慕われ、敬われ、頼られる存在になりました。後輩をよろしくお願いします。皆さんは幼稚園のことをほぼ全て理解していると思います。又友達もたくさん作ったことでしょう。先生方は皆さんに年長としての大きな活動を期待しています。運動会での組立やリレー、リズム運動、作品展での個性的な作品つくり、そして一人セリフや合奏やきれいなハーモニーを奏でる合唱、は言うまでも無く、活動の一つ一つが注目の的です。先生方も大きな期待を寄せています。その上、小学校につなぐ教育活動もあります。文字の練習から始まって数の学習まで、小学校の先取り教育はしませんが、小学校に行っても誰にも負けない、誰とでも上手くやっていく知識も身につけなければなりません。充実した楽しい最後の幼稚園生活を味わっていただきたいと思います。今から20年後、皆さんは青年であり、若者です。世界のファッションリーダーであり、技術革新の担い手です。30年後、40年後はますます進む少子化の中、日本を支える頼もしい存在になっていることでしょう。日本の矜持を守りながら、世界の人々と仲良く交流する夢の世界、私が皆さんに託する大きなお願いです。

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