私たちの役割
2021.02.01

Argentina legalizes abortion. Japan Times のNew York Times 版3ページに載っていた大きな見出し。まず懐かしいアルゼンチンという単語に目が留まり、次にlegalize(合法化する)に目が移り、最後のabortion (中絶)という言葉に隔世の思いを感じた。1969年、ビジネスで降り立った南米の大国アルゼンチン(と言っても、ほとんどの人はそんな国の名前も知らないし、ましてその内情となると、その国に関係する人しか知らない)に降り立った。東京・羽田を出発してニューヨークを経由して24時間、まさに日本の裏側であった。サッカーに興味のある人なら違った感想を持ったかもしれないが、ワールドカップもその当時の有名な釜本の名前も知らなかった。ただパンパとか牛の数が人間の数よりも多く、南極に近くて、パタゴニアという地域があって、白人の国、スペイン語を話す国くらいの知識しかなかった。日本人の私は一応仏教徒であり、真言宗であったが、仏壇とか、葬式でかかわりを持つ程度であった。しかしこの国は違った。ローマカトリックの流れを受け継いだ敬虔なカトリックの国であった。その力は絶対的と言ってもよかった。離婚は勿論、中絶はもってのほかであった.その時私は24歳、その地の同じ世代の若者は宗教と現実の狭間で苦悶していた。それから50年、やっと中絶が法制化された。今までの数多くの悲劇や非合法が合法的になった。それも議会の賛成が反対を大幅に上回った。あの時若かった人はどのような心境だろうか。恋の国アルゼンチン、情熱の国アルゼンチン、こぶしを挙げ、抱き合って喜ぶ人々の写真は長かったその歴史を雄弁に語りかけていた。 偶然私はその記事が目に留まったから私なりに知ることが出来た。しかし私たちは四六時中アンテナを張り巡らせているわけではない。見逃した事実、知らないうちに過ぎ去った過去、事実が次々と私たちの周りに現れ、ほとんどのそれが私たちに無視され、つかみ取られずに消えていく。人はそんなすべてを知ってどうする?取捨選択して受け止めていれば十分だと反論する人もいる。この頃よく思う。あの事実は知った方が良かったのか?あるいは知らずに人生を送った方がよかったのだろうか?何でも、たとえそれが自分に不利な状態になるとしても、今の幸せな生活が暗転して、もがき苦しむような状態になるとしても、真実を希求する人がいる。他人が好意的に考えて、隠し通そうとしても、その善意は通じない。反対に自分のすべての不利な状態をシャットアウトして、今の瞬間が満ち足りたものであれば、過去がどういう状況であっても、どういう立場であったとしても、関知しない人がいる。幸せとは何か、プライドとはどんなものか。人は他人を面白おかしく、たとえそれが事実でないとしても、さも見てきたように得意げに話すことがある。知人や親族や関係する人の自慢をしても、それを聞く人はまたかとうんざりしているのに、それを自覚せずに滔々と続ける。真実はすべて正しいとしても真実を知ることは不幸の始まりになるかもしれない。案外作家の原点はそんなところにあるのかも。翻って私たちのこの世での役割を考えてみると、それは誰かに幸せや喜びをもたらすこと、大きな意味では利他の心を持つことである。えてして人は自分を中心にして、地球が回っていると考えがちだが、人の幸せを考え、人の喜びを追い求めるなら、私たちの社会は概して明るい未来が待っている。そのためにはどんな仕事でも仕事を好きになろう。個人的には学校を出てからPanasonicの社員、府立高校の英語の教師、幼稚園や特別養護老人ホームやケアハウスに携わってきたが、幸いなことにそれぞれの仕事に音を上げる程いやになったことはない。老人施設設立前は年寄りや死の淵にいる人の面倒なんか嫌だと思ったこともあったが、実際に接してみると、人生の先輩たちに教えられたことも多いし、頼りにされたことも多かった。人のお役に立っている。たとえ小さくても、何かの社会的貢献していると自覚が芽生えた。この人たちを喜ばせるために何をなすべきか、どうしたら最後の短い期間を楽しく過ごしてもらえるか、それなりに考えることが出来た。幼稚園でも同じ、未来を支える子どもたちが少しでも立派に成長するように、どういう保育、どういうカリキュラム、どういう環境がいいのか。いろいろ思い悩ますことが多い。先人たちが長年にわたって努力し、考えてきた幼児教育をその根幹を大事にしながら、未来発展へのシナリオ作りをする,仕事に不平、不満を言っている時間がない。今月も先生。園児、保護者の皆さんと密接に連携を取りながら、皆を喜ばす保育を目指して努力してまいります。
2021.02.01

Argentina legalizes abortion. Japan Times のNew York Times 版3ページに載っていた大きな見出し。まず懐かしいアルゼンチンという単語に目が留まり、次にlegalize(合法化する)に目が移り、最後のabortion (中絶)という言葉に隔世の思いを感じた。1969年、ビジネスで降り立った南米の大国アルゼンチン(と言っても、ほとんどの人はそんな国の名前も知らないし、ましてその内情となると、その国に関係する人しか知らない)に降り立った。東京・羽田を出発してニューヨークを経由して24時間、まさに日本の裏側であった。サッカーに興味のある人なら違った感想を持ったかもしれないが、ワールドカップもその当時の有名な釜本の名前も知らなかった。ただパンパとか牛の数が人間の数よりも多く、南極に近くて、パタゴニアという地域があって、白人の国、スペイン語を話す国くらいの知識しかなかった。日本人の私は一応仏教徒であり、真言宗であったが、仏壇とか、葬式でかかわりを持つ程度であった。しかしこの国は違った。ローマカトリックの流れを受け継いだ敬虔なカトリックの国であった。その力は絶対的と言ってもよかった。離婚は勿論、中絶はもってのほかであった.その時私は24歳、その地の同じ世代の若者は宗教と現実の狭間で苦悶していた。それから50年、やっと中絶が法制化された。今までの数多くの悲劇や非合法が合法的になった。それも議会の賛成が反対を大幅に上回った。あの時若かった人はどのような心境だろうか。恋の国アルゼンチン、情熱の国アルゼンチン、こぶしを挙げ、抱き合って喜ぶ人々の写真は長かったその歴史を雄弁に語りかけていた。 偶然私はその記事が目に留まったから私なりに知ることが出来た。しかし私たちは四六時中アンテナを張り巡らせているわけではない。見逃した事実、知らないうちに過ぎ去った過去、事実が次々と私たちの周りに現れ、ほとんどのそれが私たちに無視され、つかみ取られずに消えていく。人はそんなすべてを知ってどうする?取捨選択して受け止めていれば十分だと反論する人もいる。この頃よく思う。あの事実は知った方が良かったのか?あるいは知らずに人生を送った方がよかったのだろうか?何でも、たとえそれが自分に不利な状態になるとしても、今の幸せな生活が暗転して、もがき苦しむような状態になるとしても、真実を希求する人がいる。他人が好意的に考えて、隠し通そうとしても、その善意は通じない。反対に自分のすべての不利な状態をシャットアウトして、今の瞬間が満ち足りたものであれば、過去がどういう状況であっても、どういう立場であったとしても、関知しない人がいる。幸せとは何か、プライドとはどんなものか。人は他人を面白おかしく、たとえそれが事実でないとしても、さも見てきたように得意げに話すことがある。知人や親族や関係する人の自慢をしても、それを聞く人はまたかとうんざりしているのに、それを自覚せずに滔々と続ける。真実はすべて正しいとしても真実を知ることは不幸の始まりになるかもしれない。案外作家の原点はそんなところにあるのかも。翻って私たちのこの世での役割を考えてみると、それは誰かに幸せや喜びをもたらすこと、大きな意味では利他の心を持つことである。えてして人は自分を中心にして、地球が回っていると考えがちだが、人の幸せを考え、人の喜びを追い求めるなら、私たちの社会は概して明るい未来が待っている。そのためにはどんな仕事でも仕事を好きになろう。個人的には学校を出てからPanasonicの社員、府立高校の英語の教師、幼稚園や特別養護老人ホームやケアハウスに携わってきたが、幸いなことにそれぞれの仕事に音を上げる程いやになったことはない。老人施設設立前は年寄りや死の淵にいる人の面倒なんか嫌だと思ったこともあったが、実際に接してみると、人生の先輩たちに教えられたことも多いし、頼りにされたことも多かった。人のお役に立っている。たとえ小さくても、何かの社会的貢献していると自覚が芽生えた。この人たちを喜ばせるために何をなすべきか、どうしたら最後の短い期間を楽しく過ごしてもらえるか、それなりに考えることが出来た。幼稚園でも同じ、未来を支える子どもたちが少しでも立派に成長するように、どういう保育、どういうカリキュラム、どういう環境がいいのか。いろいろ思い悩ますことが多い。先人たちが長年にわたって努力し、考えてきた幼児教育をその根幹を大事にしながら、未来発展へのシナリオ作りをする,仕事に不平、不満を言っている時間がない。今月も先生。園児、保護者の皆さんと密接に連携を取りながら、皆を喜ばす保育を目指して努力してまいります。
2021年、あけましておめでとうございます。
2021.01.01

新しい年、新しい希望と意欲に燃える時、保護者の皆様には2021年が本当に思い出深い、素晴らしい年になりますよう心よりご祈念申し上げます。人生にはやり直しがない、漫然と日を暮らしていたのではじきに終焉を迎えてしまう。「今年こそは」という意気込みをもってこの一年に挑戦したい。さて、その前に2020年は皆様にとって、どのような年だったでしょうか。幸せな1年であった、健康に恵まれた1年であった、子どもが生まれ、仲間が増えた、給与が上がった、昇進した、友だちが沢山できた、欲しかったものを手に入れた、行きたかった所へ行くことができた、子どもが嫌がらずに元気に幼稚園に通園している、小さな喜びの連続が大きな喜びに変わった。反対に経済的には恵まれなかった、家族や仲間に不幸があった、先々を考えて欲しかったものをあきらめた、行きたいところにも我慢した、と少し嘆きの人もおられるでしょう。しかし幸せや幸運の神はいつまでも寄り添ってくれるとは限らないし、反対に不幸せは未来永劫続くわけでもない。お金や地位や物質的豊かさの人だけがこの世の勝ち組であり、幸せを一手に引き受けているとは限らない。実際そうではない。ある知り合いの牧師が大学の学長を目の前にして、その大学をあえて退職して、一牧師に戻った。妻は収入が減ることを嘆いたが、牧師にとっては自分の進むべき神の道であり、使命に燃えた選択だった。我々凡人には考えの及ばない超越した考えである。幸せ、不幸せは外から見ただけではわからない。ある人が不幸せであると嘆いていることが、他人から見ればうらやましいほどの幸せであり、反対に幸せだと感じていることが、別の人にとっては不幸に違いないと思うかもしれない。すべてが相対的なものであり、絶対的な基準がない所に、又面白みや機微がある。少し2020年を振り返ってみよう。この年は誰もが予想しえなかったことであふれている。何と言っても新型コロナの世界的pandemic、東京オリンピックの延期、安倍長期政権の突然の崩壊と菅首相のジェットコースターの様な政権、幼稚園を始めとする学校、大学の休園,休校とズームの普及、テレワークやマスクの着用と密からの回避、有名人の死と死への恐怖、私たちの小さな脳が張り裂ける位の大きな変化にさらされた未曽有の年でもあった。いつ終息するかわからない展望のない状態では私たちの恐怖心は治まらない。そんな2020年にも別れを告げての2021年、社会、経済、政治の世界を見てみると、新型コロナとワクチンの問題、オリンピックの問題、首相選挙と衆議院選挙、日本特有の派閥の問題、経済の落ち込みと中国の問題、様々な思惑の絡まるこの年、大きな問題も大事だが、目の前の一つ一つの障害を取り除き、約束や決まり事を守って、一歩一歩着実に進んでいくことが、困難から身を守る方法であると思える。100年前に未知のスペイン風邪と恐れながらも勇敢に戦った祖先の例を見るまでもなく、近い将来、あれは何だったのだろうと思える日が来る。そしてその日も先が見えている。この2月下旬、諏訪森、鳳、美木多の年長組の第2回合同音楽発表会を西文化会館で開催する予定でした。その為の合唱曲も練習してきました。しかし会館のほうから舞台には50名しか登場できないと言われ、残念ながら今年は見送ることにしました。来年度はしっかり実現していきます。コロナだからとか、すべてコロナが悪いから、その為だからと言ってそのせいにするつもりはありませんが、感染を避けると同時に、子どもたちの今しかない活動、行事を実現するためにも、注意深くコロナと付き合っていかねばと考えています。私たちはお父さん、お母さんの子供を思う気持ちを痛いほど感じています。バスの車掌さんからもそのことを聞きますし、保護者の皆さんの何気ない言葉やしぐさにも、子を思う母の気持ち、父の気持ちが十分伝わってきます。そんな熱い気持ちに支えられた私たちの幼稚園です。その気持ちに少しでも応えるべく、今年も精一杯努力してまいります。小学校では幼稚園で学んだ基礎、基本が大きな実を結ぶことを、そして年少、年中さんにはますます活発な幼稚園生活が送れますことを願ってやみません。今年も、今年こそは保護者のみなさま全てが、限りない幸せと健康な人生を送られますように心より願っています。厚かましいお願いですが、今年もご支援、お力添えいただきますようお願い申し上げます。Gentlemen, Start your Engines.
2021.01.01

新しい年、新しい希望と意欲に燃える時、保護者の皆様には2021年が本当に思い出深い、素晴らしい年になりますよう心よりご祈念申し上げます。人生にはやり直しがない、漫然と日を暮らしていたのではじきに終焉を迎えてしまう。「今年こそは」という意気込みをもってこの一年に挑戦したい。さて、その前に2020年は皆様にとって、どのような年だったでしょうか。幸せな1年であった、健康に恵まれた1年であった、子どもが生まれ、仲間が増えた、給与が上がった、昇進した、友だちが沢山できた、欲しかったものを手に入れた、行きたかった所へ行くことができた、子どもが嫌がらずに元気に幼稚園に通園している、小さな喜びの連続が大きな喜びに変わった。反対に経済的には恵まれなかった、家族や仲間に不幸があった、先々を考えて欲しかったものをあきらめた、行きたいところにも我慢した、と少し嘆きの人もおられるでしょう。しかし幸せや幸運の神はいつまでも寄り添ってくれるとは限らないし、反対に不幸せは未来永劫続くわけでもない。お金や地位や物質的豊かさの人だけがこの世の勝ち組であり、幸せを一手に引き受けているとは限らない。実際そうではない。ある知り合いの牧師が大学の学長を目の前にして、その大学をあえて退職して、一牧師に戻った。妻は収入が減ることを嘆いたが、牧師にとっては自分の進むべき神の道であり、使命に燃えた選択だった。我々凡人には考えの及ばない超越した考えである。幸せ、不幸せは外から見ただけではわからない。ある人が不幸せであると嘆いていることが、他人から見ればうらやましいほどの幸せであり、反対に幸せだと感じていることが、別の人にとっては不幸に違いないと思うかもしれない。すべてが相対的なものであり、絶対的な基準がない所に、又面白みや機微がある。少し2020年を振り返ってみよう。この年は誰もが予想しえなかったことであふれている。何と言っても新型コロナの世界的pandemic、東京オリンピックの延期、安倍長期政権の突然の崩壊と菅首相のジェットコースターの様な政権、幼稚園を始めとする学校、大学の休園,休校とズームの普及、テレワークやマスクの着用と密からの回避、有名人の死と死への恐怖、私たちの小さな脳が張り裂ける位の大きな変化にさらされた未曽有の年でもあった。いつ終息するかわからない展望のない状態では私たちの恐怖心は治まらない。そんな2020年にも別れを告げての2021年、社会、経済、政治の世界を見てみると、新型コロナとワクチンの問題、オリンピックの問題、首相選挙と衆議院選挙、日本特有の派閥の問題、経済の落ち込みと中国の問題、様々な思惑の絡まるこの年、大きな問題も大事だが、目の前の一つ一つの障害を取り除き、約束や決まり事を守って、一歩一歩着実に進んでいくことが、困難から身を守る方法であると思える。100年前に未知のスペイン風邪と恐れながらも勇敢に戦った祖先の例を見るまでもなく、近い将来、あれは何だったのだろうと思える日が来る。そしてその日も先が見えている。この2月下旬、諏訪森、鳳、美木多の年長組の第2回合同音楽発表会を西文化会館で開催する予定でした。その為の合唱曲も練習してきました。しかし会館のほうから舞台には50名しか登場できないと言われ、残念ながら今年は見送ることにしました。来年度はしっかり実現していきます。コロナだからとか、すべてコロナが悪いから、その為だからと言ってそのせいにするつもりはありませんが、感染を避けると同時に、子どもたちの今しかない活動、行事を実現するためにも、注意深くコロナと付き合っていかねばと考えています。私たちはお父さん、お母さんの子供を思う気持ちを痛いほど感じています。バスの車掌さんからもそのことを聞きますし、保護者の皆さんの何気ない言葉やしぐさにも、子を思う母の気持ち、父の気持ちが十分伝わってきます。そんな熱い気持ちに支えられた私たちの幼稚園です。その気持ちに少しでも応えるべく、今年も精一杯努力してまいります。小学校では幼稚園で学んだ基礎、基本が大きな実を結ぶことを、そして年少、年中さんにはますます活発な幼稚園生活が送れますことを願ってやみません。今年も、今年こそは保護者のみなさま全てが、限りない幸せと健康な人生を送られますように心より願っています。厚かましいお願いですが、今年もご支援、お力添えいただきますようお願い申し上げます。Gentlemen, Start your Engines.
徒然草
2020.12.01

徒然なるままに頭に浮かぶものを起承転結なしで筆をすべらせた。私たちはある意味、非現実的な世界、バーチャルな世界に住んでいると言っても過言ではない。そこでは何が正解で、何が間違いであるのか、本当のニュースであるのか、フェイク・ニュースであるのか、黒白をはっきりしなければいけないのか、ファジーのままではダメなのか?誰が善悪を見極めるのか?トランプ大統領は本当に負けたのか、それとも劇的な復活はあるのか?バイデン支持者にとっては議論の余地がないことだと言うし、トランプ派にとってはフロリダもテキサスも奪取したのに、負けたはずがないと今でも思っている。それにマスコミは何と罪深いのだろう。前回はトランプを好意的に捉え、今回はバイデンを好ましく報道している。巨大IT企業も両者平等に扱っているのではなく、一方に偏ったりしている。真の勝者は本当にアメリカ国民だろうか?それとも連日連夜、それが本当であれ、フェイクであれ、報道を流し続けたマスコミの勝利と言ってもいいのかも。反トランプのニューヨークタイムズ紙はそれを売りにして、反トランプ派の大きな購買力を得て、青息吐息であった部数が大幅に伸びたと言われている。真実を報道すると言われているマスコミもいわばビジネス、ビジネスも大事、どちらに立てばよりビジネスが成功するのかを見極めての行動、ビジネスは真実よりも大事なのか?それぞれの人がそれぞれの意見をもって行動している。すべて同じ意見というのはあり得ない話、ありえるとしたら、相手が様々な立場を考えて、意見を合わせているだけ、忖度の世界では普通のこと、生活の知恵として、日本人の中に存在し続けたが、それが白日の下にさらされ、非難の対象になってきた。一方、それに反すると、つまはじきにされ、変わったやつだとレッテルを貼られてしまう。忖度のない世界に生きる子どもたちにとって、目に見えたもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの、口で味わったもの、皮膚で感じたもの、それらが全て忖度の必要もないし、そんな言葉や知恵もない。彼らは見えたままに、匂ったままに、感じたままに表現し、誰に遠慮することもない。正直そのもの、一点の曇りもない。しかし大人は他人からどう思われているのかは大変気になり、自分の意見が発言する人のそれと異なっていても、相手が強い立場の人だったら、黙り込み、意に反して同調の声を上げる。このことは日本人のある意味良き点でもあるが、太平洋戦争に突入していった悲劇の根源でもあった。逆に考えれば、そういう一致協力の関係を築きやすいが故に、団体として、大きな力、国力の発揚に寄与している。1970年、大阪万博が千里丘陵の竹藪を造成して華々しく開催された。25歳の時であった。三波春夫や佐良直美が得意気に万博の歌を披露していた。その当時私が勤務していた会社は今から言えば何でもないことだが、1インチのTVを開発して世間を驚かせた。50年後、100年後に掘り出すタイムカプセル、未来から過去を見直すこの言葉が流行った。今年はあの時から50年、今はタイムカプセルを開けるには早すぎる。あの時月から石を持ち帰ったのだから、技術的にはびっくりするほどの大きな進歩がないのかも。自分の生きているうちにその成果を見ようと考える人は多いが、自分の亡き後を考え、長期的な視野をもって都市計画を作ったり、公園や街路に小さな木を植樹して、次の世代に残したり(最も日本ではすぐに頭の先を切り落とされてしまうが)する人は少ない。昔、田舎の人は先祖から受け継いだ田畑をしっかりと次の世代に引き継ぎ、その世代はまた次の世代へ送っていく。少しでも財産を失うと、周りから白い目で見られ、批判され、その場所に住むことは居心地が悪くなる。個人のものであってもそうではない、いわば運命共同体のようなもの。神社仏閣に対する寄付も同じこと。
さて、11月の作品展のアンケートをすべて読ませていただきました。コロナ禍の中でも頑張って作品展を開催したこと、展示がよかったこと、絵画の説明を受けて納得したとか、9割以上の人が私たちにとって心地よい意見を書いていただきました。しかし記名式であったが故に、書きたいことも書けなかったという保護者さんがおられたかもわかりません。私たちは保護者の皆様すべての意見を、それが好意的であれ、私たちへの叱咤激励の言葉であれ、真摯に受け止め、次への大きな飛躍への通り道だと考え、より一層努力してまいります。今後とも大きな励ましをよろしくお願いします。
さて、今月はクリスマスの月、幼稚園もイルミネーションでいっぱいです。南半球の真夏のクリスマスも趣があってよい。しかし私たちには白銀とトナカイのイメージがいっぱいです。西洋の風習といえども、良いもの、ロマンあふれるものは、洋の東西を問わず、子どもたちの成長の過程には欠かせないもの。早くコロナが終息して、冬の野山を子どもたちと楽しみたい。2020年、いろいろありがとうございました。来る2021年も変わらぬご厚情とお力添えを賜りますようお願い申し上げます。
2020.12.01

徒然なるままに頭に浮かぶものを起承転結なしで筆をすべらせた。私たちはある意味、非現実的な世界、バーチャルな世界に住んでいると言っても過言ではない。そこでは何が正解で、何が間違いであるのか、本当のニュースであるのか、フェイク・ニュースであるのか、黒白をはっきりしなければいけないのか、ファジーのままではダメなのか?誰が善悪を見極めるのか?トランプ大統領は本当に負けたのか、それとも劇的な復活はあるのか?バイデン支持者にとっては議論の余地がないことだと言うし、トランプ派にとってはフロリダもテキサスも奪取したのに、負けたはずがないと今でも思っている。それにマスコミは何と罪深いのだろう。前回はトランプを好意的に捉え、今回はバイデンを好ましく報道している。巨大IT企業も両者平等に扱っているのではなく、一方に偏ったりしている。真の勝者は本当にアメリカ国民だろうか?それとも連日連夜、それが本当であれ、フェイクであれ、報道を流し続けたマスコミの勝利と言ってもいいのかも。反トランプのニューヨークタイムズ紙はそれを売りにして、反トランプ派の大きな購買力を得て、青息吐息であった部数が大幅に伸びたと言われている。真実を報道すると言われているマスコミもいわばビジネス、ビジネスも大事、どちらに立てばよりビジネスが成功するのかを見極めての行動、ビジネスは真実よりも大事なのか?それぞれの人がそれぞれの意見をもって行動している。すべて同じ意見というのはあり得ない話、ありえるとしたら、相手が様々な立場を考えて、意見を合わせているだけ、忖度の世界では普通のこと、生活の知恵として、日本人の中に存在し続けたが、それが白日の下にさらされ、非難の対象になってきた。一方、それに反すると、つまはじきにされ、変わったやつだとレッテルを貼られてしまう。忖度のない世界に生きる子どもたちにとって、目に見えたもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの、口で味わったもの、皮膚で感じたもの、それらが全て忖度の必要もないし、そんな言葉や知恵もない。彼らは見えたままに、匂ったままに、感じたままに表現し、誰に遠慮することもない。正直そのもの、一点の曇りもない。しかし大人は他人からどう思われているのかは大変気になり、自分の意見が発言する人のそれと異なっていても、相手が強い立場の人だったら、黙り込み、意に反して同調の声を上げる。このことは日本人のある意味良き点でもあるが、太平洋戦争に突入していった悲劇の根源でもあった。逆に考えれば、そういう一致協力の関係を築きやすいが故に、団体として、大きな力、国力の発揚に寄与している。1970年、大阪万博が千里丘陵の竹藪を造成して華々しく開催された。25歳の時であった。三波春夫や佐良直美が得意気に万博の歌を披露していた。その当時私が勤務していた会社は今から言えば何でもないことだが、1インチのTVを開発して世間を驚かせた。50年後、100年後に掘り出すタイムカプセル、未来から過去を見直すこの言葉が流行った。今年はあの時から50年、今はタイムカプセルを開けるには早すぎる。あの時月から石を持ち帰ったのだから、技術的にはびっくりするほどの大きな進歩がないのかも。自分の生きているうちにその成果を見ようと考える人は多いが、自分の亡き後を考え、長期的な視野をもって都市計画を作ったり、公園や街路に小さな木を植樹して、次の世代に残したり(最も日本ではすぐに頭の先を切り落とされてしまうが)する人は少ない。昔、田舎の人は先祖から受け継いだ田畑をしっかりと次の世代に引き継ぎ、その世代はまた次の世代へ送っていく。少しでも財産を失うと、周りから白い目で見られ、批判され、その場所に住むことは居心地が悪くなる。個人のものであってもそうではない、いわば運命共同体のようなもの。神社仏閣に対する寄付も同じこと。
さて、11月の作品展のアンケートをすべて読ませていただきました。コロナ禍の中でも頑張って作品展を開催したこと、展示がよかったこと、絵画の説明を受けて納得したとか、9割以上の人が私たちにとって心地よい意見を書いていただきました。しかし記名式であったが故に、書きたいことも書けなかったという保護者さんがおられたかもわかりません。私たちは保護者の皆様すべての意見を、それが好意的であれ、私たちへの叱咤激励の言葉であれ、真摯に受け止め、次への大きな飛躍への通り道だと考え、より一層努力してまいります。今後とも大きな励ましをよろしくお願いします。
さて、今月はクリスマスの月、幼稚園もイルミネーションでいっぱいです。南半球の真夏のクリスマスも趣があってよい。しかし私たちには白銀とトナカイのイメージがいっぱいです。西洋の風習といえども、良いもの、ロマンあふれるものは、洋の東西を問わず、子どもたちの成長の過程には欠かせないもの。早くコロナが終息して、冬の野山を子どもたちと楽しみたい。2020年、いろいろありがとうございました。来る2021年も変わらぬご厚情とお力添えを賜りますようお願い申し上げます。