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食材と温泉 大分県

2017.11.01
食材と温泉 大分県

 その船は19時05分きっかりに出航した。今まで船とは縁がなかった。その船は大きかった。フェリーであった。今まで何回かフェリーに乗ったが、これほど大きいフェリーは初めてであった。夜の大阪南港第1フェリーターミナル、車の種類や長さを伝えて切符を買った。行先は大分県別府フェリーターミナルであった。その船の名前はサンフラワー(ヒマワリ)であった。瀬戸内海を通って別府まで約12時間弱であった。車を乗せていない乗客も多数いた。九州に行くのには新幹線か飛行機だけだと思っていたが、こういうルートがあることに初めて気づいた。私は1回だけこの航路を経験したことがあった。55年程前の高校生の修学旅行であった。大阪には天保山という港があった。そこから関西汽船が出ていた。ワクワクする九州への修学旅行の起点であった。そこから関西汽船が出ていた。どんな船だったのか今はもう覚えていないが、外国人が珍しく船内にいて、場所を聞かれて頓珍漢な答えをしただけは鮮明に今でも覚えている。上陸した後は別府温泉の地獄めぐりをし、観光バスで阿蘇山に行き、その後長崎まで行って、列車で堺に帰ってきた。道は狭く、舗装してなくて、前のバスの土ほこりが容赦なくクーラーのない私たちの観光バスに侵入した。今だったら耐えられないだろうが、当時はそんなものと思っていた。それからの55年、瀬戸内海を通過したことが無かった。そのサンフラワーには大きな浴場があった。個室もあり、ベッドもあった。食事はバイキング形式であった。フェリーが出帆して1時間、船長は明石大橋の真下を通ると放送した。2日後にこの上を通るとは思っていなかった。今年33回目を迎えた全日本私立幼稚園連合会設置者・園長全国研修大会への参加であった。今年の参加者は500名余り、日本全国から集まった。私もそのうちの1人であった。いつもそうだが、文科省の役人の意見を直接聞きたかった。少しでも私たちの幼稚園に役立つ情報を持って帰れたらという思いでもう何回も何回も参加してきた。内海のせいか、又はフェリーが大きいせいかほとんど揺れることもなく、定刻少し前の7時頃に目的の別府港に着岸した。小雨が降っていた。会場は大分市のオアシスタワーホテルで、受付は12時からであった。5時間あった。ふと思いついたのが関アジ、関サバで有名な、そして学校時代に地理で勉強した製錬所のある佐賀関であった。ナビで教えられた道は朝8時頃のせいか、渋滞の連続であった。やっと着いたが、選挙運動の真最中、有力E議員の選挙カーに何回もであった。半島を少し回ったところに漁港があり、たくさんの漁船が係留されていた。雨で漁に出なかったのか、既に漁から帰ってきたのだろうか。改装中の魚の直売所の建物があった。職員は、今日生魚は入荷していないと言った。ふと建物を見ると、「平成22年度種子島周辺漁業対策補助金」と記されていた。ここは大分県、種子島周辺と言えるのかなと思ったりもした。ここの製錬所の建物は大きかったがそれにもまして、標高132mの丘の上に建てられた高さ200mの巨大煙突にはびっくりした。煙害防止だそうだが、この日は雨空で、煙突の先は雲の中に隠れていた。大分市はこんなに建物がたくさんあり、大きくてきれいな町とは想像していなかった。よく地方再生と言うが、地方の町の方が立派で綺麗で豊かでないのかと考えたりした。初めに連合会の会長は、幼稚園は原点に戻らなければいけない。少子化とか、国の補助金も大切だが、幼児を立派に教育し、小学校につなげていく幼稚園本来の役割を愚直に実行していくべきだと言った。私もまったく同感だと思った。次に長州藩の末裔で、別府でピアニストとして活躍する伊藤京子さんがグランドピアノを時には弾きながら講演をした。その中で心に残っていることは「演奏方法はいろいろあってもよいが、その曲がどのようにしてできたか、作曲家の意図を十分伝えるようにピアニストは演奏しなければいけない。例えばショパンの「革命」の曲は作曲がどのような状況下で書いたかを知らねばならない。ただ楽譜に忠実に演奏しているだけではだめなのです」と言ったことです。昔現地で聞いたタンゴ歌手の藤沢蘭子さんがアルゼンチンの人に「歌は素晴らしいが、何か心に響くものがない」と言われた事と同じなのかも。文科省の課長は幼稚園教育の無償化を進めていて、誰も収入に関係なく、幼稚園に行かせることが出来るように保護者にはその保証をする事と不足する0~2歳児の施設の中で、幼稚園で2歳児を積極的に受け入れることが出来るように対策を考えている、それに来年4月からは幼稚園指導要領が変わるので、その内容と対応などについて話された。最後に危機管理の観点から講演があった。事故は事故が起きるように行動している。たまたまはない。起きたことはしっかりと受け止め、明日は我が身と考える。後悔先に立たず、をしっかり肝に銘じる。事故は0~4歳児が多く、5歳児になると減る。最後に幼稚園は小さいお子様をお預かりしているのだから、毎日何も起こらないのは奇跡である。奇跡が続くように頑張って行こうと言われた。帰りは別府港から愛媛県佐田岬の付け根の八幡浜港をフェリーで目指した。89km、2時間30分。高い煙突が見える佐賀関までは海は穏やかであったが、豊後水道に入るや否やその高さが2m以上と思われる激しい波が船にぶつかり、しぶきが甲板に飛び散った。四国の高速道路、鳴門大橋、明石大橋、神明道路、阪神高速を経由して堺に帰ってきた。八幡浜から400kあまり、まだ返納は大丈夫かなと一人考えていた。 さて今月もみかん狩りや作品展、その他いろいろな行事が待っています。元気に取り組んでまいります。厚かましいですが、ご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

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研修大会

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別府鉄輪温泉

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漁港と高い煙突

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宇和島フェリー

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豊後水道通過

消えつつある言語

2017.10.01


お母さん、「おんなもんべつ」と書いているよ。賢そうな小学生の女の子が横にいる母親に「難しい漢字も読めるようになった」と言うことを暗示するように小さな声でつぶやいた。それはめまんべつと読むのよ。優しい声で答えた。伊丹空港を離陸して約2時間、JAL機は北海道東部、網走市近くの女満別空港に満員の乗客を乗せて着陸した。8月下旬、この便は明日で運航を終える。それ以降女満別に大阪から行くには、札幌か東京経由しかフライトがない。最後の激安便であった。今から50年以上前の大学3年生の時に友達3人と北海道のこの地域にやってきた。カニ族?と呼ばれた。荷物を一杯詰め込んだリュックを背負って汽車やバス、ヒッチハイクで北海道中を旅することが流行であった。そのほとんどがユースホステルに泊まった。一方では学生運動がまっただ中であり、一方ではリュックを背負っての観光であった。グループでの旅であった。行程は自分たちで決めていくのだが、そんなに沢山ルートがあるわけでなかった。ある場所で知り合い、別れ、又ある交通機関で知り合い、別れ、又出会うということが多かった。そこでは友情が芽生え、他大学を知り、ロマンも生まれることがあった。沢山歩いて、疲れることもあったが、体力の方が勝った。青春の1ページであり、ほろ苦い経験でもあった。函館に帰る汽車はトンネルが多く、機関車の煙で真っ黒になった。彫りの深い妙齢の女性に函館に着いたら、「お風呂にご案内しましょうか」と言われてみんな喜んだことも旅の思い出だ。青函連絡船の上では何回か出会った福井大学のグループに又会った。青森に着くまでずっと話をしていたのを憶えている。青森から急行「日本海」で無事大阪に帰ってきた。時間に無限の余裕があった青春物語であった。それから50年あまり、再びこの地域にやってきた。今度は汽車でなく飛行機で。この地で印象に残っているのは2カ所。美幌峠から見下ろす屈斜路湖の美しい景観であり、もう一つは2度行った摩周湖で会った。1度目は霧で覆われ、何も見えなかった。しかし麓の町まで帰ってきて、ふと後ろを眺めると、霧が消えていた。急いで引き返し、崖を下って、水辺まで行った。摩周湖の美しさと水の透明さを実感した。あのとき沢山撮った写真はどこへ行ったのだろうか。今回も美幌峠は晴天であった。摩周湖までレンタカーで行ったが、その自然の美しさ、神秘さを堪能してくれと言わんばかりの姿で歓迎してくれた。西にハンドルを切って阿寒湖を目指した。鶴雅別荘鄙の座で見たアイヌ人彫刻家藤戸竹喜氏の熊の木彫りに大きな感動を覚えた。繊細なタッチ、それでいて大胆な一刀彫りの彫刻は私の心に大きく響くものがあった。近くに藤戸氏の店があった。彼の作品は地下に展示されていた。多くは非売品であったが、気に入った熊の小品を分けていただいた。同じような作家で、最近亡くなられた瀧口政満氏の作品も素晴らしいという意外に言葉が見つからなかった。アイヌのことはほとんど知識がない。しかし、コタン(集落)、カムイ(神)、イヨマンテ(熊祭)、ユーカラ(叙事詩)、ラッコ、トナカイ等の言葉は私たちの中に根を下ろしている。金田一京助教授によって再び見いだされたアイヌの言語、言葉、詩、伝説、説話、等々は日本民族との同化政策によって、失われつつある。又その言語も今は語る人も限られ、消えつつあるという悲しい運命に翻弄されている。しかしその源は今でも北海道の各地で受け継がれ、名前を残し、誇り高い民族の矜持を保っている。




アイヌ人彫刻家 藤戸竹喜氏 熊の木彫り

私たちの仲間

2017.09.01


8月のお盆の時期になると、幼稚園をいつも支えてくださった人々のことを思い出す。その人が物故者であっても、生存中の人であっても。美木多幼稚園40年、最初先生は3人であった。その3人の先生一人は熊本、二人は南区在住、元気でおられるのが本当にうれしい。今まで250人あまりの先生に支えられてきた美木多幼稚園、誰も亡くなったという報告は受けていない。社会の様々な分野で又は家庭の中でこの世に生まれてきたことの大きな責任を果たしている。残念ながら、安全、安心送迎に尽力を尽くしていただいた運転手の中には鬼籍に入った人も。40年ほど前に最初に私たちの仲間になったAさんは観光バス出身の運転手、2年後には友達のBさんも仲間に入った。AさんもBさんも観光バスの経験を活かして、本当に誰からも信頼され、好かれた運転を心がけていただいた。5年後にはCさんも路線バスの運転手から私たちの仲間に入っていただいた。アームをあげたフォークリフトと軽い接触事故があったが、それ以外は毎日定時運行、何年か後には姪御さんも私たちの仲間に加わった。沢山の先生や職員の姿が走馬燈のように私の頭の中を駆け巡っている。私の母親の初代園長は、本人にはその意識がなかったが、創立期の苦労を一身に背負って頑張った。長年の小学校の経験を生かし、目に触れるもの、身近なもの全てが教材であった。野の花を摘み、生け花として園内に飾り、川や田んぼで生き物を捕っては園児に見せて興味付けをし、好奇心を刺激した。父である初代理事長は田舎育ちの地方公務員であったが、何事にもあまり逆らうことはせず、黙々と仕事をこなした好人物であった。いろいろな人に支えられての40年、私には全てが貴重な勉強であった。諏訪森幼稚園は80有余年の歴史、様々な先生が創立以来大活躍して、今に引き継がれてきた。私がバトンを受け継いで8年、その時の先生は、意見が異なったり、方針が違ったりして、今はもう誰もいない。しかし時々いただく便りによれば、同じ分野で大活躍しているとのこと、働く場所が異なっても、幼児教育に架ける情熱は何ら変わることはない。ますますの健康と活躍を祈るばかりだ。5年目の鳳幼稚園も仲良し先生の集団だ。家から遠いという理由で八尾市の幼稚園に行ったDさんも、そこの園長先生から良い先生を紹介していただいたとお礼の電話があった。今の先生方には先人たちの熱い教えや体験を踏まえ、今いる目の前の子どもたちにその大きな遺産を引き継いでいってもらいたい。8月初め、関空からロスに行った。夕食を食べて、映画を一、二本見ていると到着した。アメリカ西海岸は本当に近く感じた。ロスは砂漠の町、というより、何百キロ先から水を供給されて生きている大都会、トランプ大統領のことをよく言わない人が多いのにびっくりする。通過点のラスベガスはロス以上に砂漠の中に忽然と現れる大都市、ホテルは勿論、飛行場までスロットルマシンが沢山あって、さすがギャンブルの町、しかし生き抜くために、エンタテイメントにこだわり、人を喜ばすために精一杯努力している町という印象は大きかった。カジノに行くためにここに来たわけではなかった。グランドキャニオンに行くための15人乗りの小さなプロペラ機から見た光景は何万年もの間に削り取られた奇岩より、それらの岩の一番下を蛇行して流れているコロラド川が気になった。スペイン語のコロラド(カラード、色のついた)は本当に川の色を表しているのだろうか。次回もし来ることがあったなら、是非観光ヘリコプターでもっと近くに行きたいと思った。昔々絵本で見た幹の中を車が通る程大きな木がある(今は折れて禁止しているそうだが)ヨセミテ公園、あちこちに山火事のあとがある。山火事は自然の摂理に任せていて、消さないそうだ。この公園は緑一杯で、やはり大きな岩が有名だそうだが、(アメリカの有名なスポーツメーカーのマークになっているとのこと)交通渋滞が激しい。総じてアメリカの国立公園は大味の感じである。サンフランシスコでお世話になった日系人(若いときに日本からやってきた)のガイドはお金の話を頻繁にしたのが気になった。シスコでは年収1000万円(10万ドル弱)では下層だそうだ。IT長者が多いシリコンバレー近くのシスコは家賃を含め、全て割高だそうだ。何人かの日系人はおしなべて「自己責任」と言うことを口にした。何事をするにもほぼ自由だが、それに伴う責任は自分でとらなければいけない。その為に自己主張をし、自分を売り込むことも必要なのだろう。日本は何かあれば、国や市町村が助けてくれることが多い。資本主義のアメリカと比べれば、みんな助け合いのいわば社会主義国家であるのかもしれない。自己責任が良いのか、それとも多少自由が犠牲になったとしても庇護を求めるのが良いのか。若い人は前者で、高齢者は後者という人もいる。トランプ大統領賛成、トランプ大統領反対の世論が揺れ動くアメリカ、誰が大統領になってもその偉大さは変わりようがない。すでに2学期が始まっています。9月は入園説明会、10月は園児募集があります。少しでも私たちの仲間が増えてほしい。その願いは切実です。私たちは子どもたちの現状と未来を考え、精一杯努力して参ります。入園させてよかったと心より言ってもらえる保育を目指して頑張ります。よろしくお願い申し上げます。

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