感動を与える、感動を受ける
2019.11.01

テントの後ろから聞こえてくるひそひそ声、「ほんまにいいものを見せてもらった」「そうやそうや」異口同音に同じようなことを話し合っている。渋野日向子が全英オープンで優勝し、ラグビーは全勝で8強に進んだ。日本中が感動の渦にのまれ、にわかファンが巷にあふれている。運動会では子供たちのひたむきな演技、競技、組体が大きな感動を呼び起こした。子どもたちがひたすら一生懸命すればするほど、それを見守る大人にも感動の嵐が押し寄せ、目頭が熱くなり、涙となって、頬から流れ落ちている。利害関係で動いているわけではない。ただ先生にこうしようと教えられた事を一途に頑張っている。中には運動が苦手な子もいるし、この瞬間を考えれば、能力的な差がある子どももいるだろう。しかしそんな差を感じさせない位、みんな同じ動きで、みんな笑顔で、仲間と一心同体になっている。子どもたちにひたむきさが見えれば見えるほど、大人たちには何とも言えないような大きな感動が押し寄せる。そんな年長さんの大きな活躍が小学校1年生になっても消えてしまわないように幼小の連携の大切さが最近声高に叫ばれている。21世紀の未来の若者、日本人であることを誇りに持って、世界の誰からも好かれる素晴らしい日本国を作ってほしい。しかし今の日本はどのような状態に置かれているのだろうか。昔の私には理解を超えたものがたくさん存在する。しかしそれを強調したところで、それは昔の話、今は違うと一蹴されてしまう。若いころは韓国、台湾へ行くというと、遊びに行くのか?と疑いの目を向けられた。しかし今や若者の韓国、台湾びいきが止まらず、マスメディアの世界でも、その存在を無視できない。長らく日本がアジアで所得が一番高いと惰眠している間に、韓国やシンガポールの所得が高くなっている。大学のレベルでも、東大や京大などの旧帝大が上位に顔を出すだけで、それらの大学も、世界のランキング、いやアジアのランキングからも低位置に甘んじている。アメリカの大学で学ぶアジア人でも、日本人は中国人、韓国人に大きく水をあけられている。今年も日本人がノーベル賞に選ばれ、アジアの中では受賞者の数が卓越しているが、その傾向はこれからも続くのだろうか。ある知識人は昔の大学には無駄とおもえるような研究にも取り組む余裕があったが、今の大学は早急な成果が求められ、寛容さや余裕がなくなっていると主張する。ある人は日本の国力の低下を嘆いている。実際、長らくアメリカに次いで、世界2位の地位を占めていた日本は、中国にその地位を明け渡すと、その格差が拡がる一方だ。2011年、世界のGDPで日本が6,7%を占めていたが、OECDの予想で、2030年には4,2%に低下している。因みにアメリカも22,7%から17,8%に下がっているが、中国は17%から27,9%に上昇している。成る程人口減による影響は大きいが、日本よりはるかに人口の少ない国、換言すれば国内消費の少ない国でも、国民の所得の高い国がたくさん存在する。「マネーは国のメンツなどを気にしない。成長をやめた国を去り、成長する国に向かう」こんなことを言われないためにも、日本が世界中から羨ましがられる、環境に配慮した豊かな国作りを目指していきたい。
先日全日本幼稚園園長、設置者研修大会で、何回もチームを甲子園で優勝に導いた智辯和歌山高校の高嶋仁監督の話を聞いた。人は感動を受けて変わる。監督は今まで2回大きな感動を受けた。1回は高校生の時の監督に、あと1回は代表になって甲子園のグランドを歩いているときに感動し、指導者になることを決意し、日体大に進み、卒業して、智辯の監督になった。智辯和歌山は1,2位を争う進学校、当然野球部は野球の特待生ばかりと思っていたが、一般入試の生徒、それも学年10人しか野球部に入れない。少人数の弱小チームがどうして何回も勝利をつかむチームに変貌していったのか、今でいえば、パワハラと紙一重のような厳しい指導、他チームの倍の練習をし、やる気、意欲、悔しさを教え、意識改革を実行し、技術力、精神力、体力を身につけさせた。「努力は決して人を裏切ることはない」を実践した。指導者として、①くやしさを教える②信頼関係を築き、辛抱強く、決して裏切らない③自信を持たせる④人を動かす武器(言葉)を磨く⑤指導者自身勉強する、学ぶ。学ぶことをやめたら教えることをやめる。生徒には①志を持て②知識を磨く③力を養う④行動する事を教え、その条件として、①反省する心②柔軟な思想③視野を広げる④忍耐、辛抱が大切であることを知らしめる。人にはいくら成功者だからと言って、100人中100人すべてが肯定するとは限らないが、指導者として大きな実績を上げたことをだれも否定する者はいないだろう。今年もあと2か月、やり残したことがないかどうか過去を顧みて、未来に備えましょう。今月もご支援、お力添えよろしくお願い致します。
2019.11.01

テントの後ろから聞こえてくるひそひそ声、「ほんまにいいものを見せてもらった」「そうやそうや」異口同音に同じようなことを話し合っている。渋野日向子が全英オープンで優勝し、ラグビーは全勝で8強に進んだ。日本中が感動の渦にのまれ、にわかファンが巷にあふれている。運動会では子供たちのひたむきな演技、競技、組体が大きな感動を呼び起こした。子どもたちがひたすら一生懸命すればするほど、それを見守る大人にも感動の嵐が押し寄せ、目頭が熱くなり、涙となって、頬から流れ落ちている。利害関係で動いているわけではない。ただ先生にこうしようと教えられた事を一途に頑張っている。中には運動が苦手な子もいるし、この瞬間を考えれば、能力的な差がある子どももいるだろう。しかしそんな差を感じさせない位、みんな同じ動きで、みんな笑顔で、仲間と一心同体になっている。子どもたちにひたむきさが見えれば見えるほど、大人たちには何とも言えないような大きな感動が押し寄せる。そんな年長さんの大きな活躍が小学校1年生になっても消えてしまわないように幼小の連携の大切さが最近声高に叫ばれている。21世紀の未来の若者、日本人であることを誇りに持って、世界の誰からも好かれる素晴らしい日本国を作ってほしい。しかし今の日本はどのような状態に置かれているのだろうか。昔の私には理解を超えたものがたくさん存在する。しかしそれを強調したところで、それは昔の話、今は違うと一蹴されてしまう。若いころは韓国、台湾へ行くというと、遊びに行くのか?と疑いの目を向けられた。しかし今や若者の韓国、台湾びいきが止まらず、マスメディアの世界でも、その存在を無視できない。長らく日本がアジアで所得が一番高いと惰眠している間に、韓国やシンガポールの所得が高くなっている。大学のレベルでも、東大や京大などの旧帝大が上位に顔を出すだけで、それらの大学も、世界のランキング、いやアジアのランキングからも低位置に甘んじている。アメリカの大学で学ぶアジア人でも、日本人は中国人、韓国人に大きく水をあけられている。今年も日本人がノーベル賞に選ばれ、アジアの中では受賞者の数が卓越しているが、その傾向はこれからも続くのだろうか。ある知識人は昔の大学には無駄とおもえるような研究にも取り組む余裕があったが、今の大学は早急な成果が求められ、寛容さや余裕がなくなっていると主張する。ある人は日本の国力の低下を嘆いている。実際、長らくアメリカに次いで、世界2位の地位を占めていた日本は、中国にその地位を明け渡すと、その格差が拡がる一方だ。2011年、世界のGDPで日本が6,7%を占めていたが、OECDの予想で、2030年には4,2%に低下している。因みにアメリカも22,7%から17,8%に下がっているが、中国は17%から27,9%に上昇している。成る程人口減による影響は大きいが、日本よりはるかに人口の少ない国、換言すれば国内消費の少ない国でも、国民の所得の高い国がたくさん存在する。「マネーは国のメンツなどを気にしない。成長をやめた国を去り、成長する国に向かう」こんなことを言われないためにも、日本が世界中から羨ましがられる、環境に配慮した豊かな国作りを目指していきたい。
先日全日本幼稚園園長、設置者研修大会で、何回もチームを甲子園で優勝に導いた智辯和歌山高校の高嶋仁監督の話を聞いた。人は感動を受けて変わる。監督は今まで2回大きな感動を受けた。1回は高校生の時の監督に、あと1回は代表になって甲子園のグランドを歩いているときに感動し、指導者になることを決意し、日体大に進み、卒業して、智辯の監督になった。智辯和歌山は1,2位を争う進学校、当然野球部は野球の特待生ばかりと思っていたが、一般入試の生徒、それも学年10人しか野球部に入れない。少人数の弱小チームがどうして何回も勝利をつかむチームに変貌していったのか、今でいえば、パワハラと紙一重のような厳しい指導、他チームの倍の練習をし、やる気、意欲、悔しさを教え、意識改革を実行し、技術力、精神力、体力を身につけさせた。「努力は決して人を裏切ることはない」を実践した。指導者として、①くやしさを教える②信頼関係を築き、辛抱強く、決して裏切らない③自信を持たせる④人を動かす武器(言葉)を磨く⑤指導者自身勉強する、学ぶ。学ぶことをやめたら教えることをやめる。生徒には①志を持て②知識を磨く③力を養う④行動する事を教え、その条件として、①反省する心②柔軟な思想③視野を広げる④忍耐、辛抱が大切であることを知らしめる。人にはいくら成功者だからと言って、100人中100人すべてが肯定するとは限らないが、指導者として大きな実績を上げたことをだれも否定する者はいないだろう。今年もあと2か月、やり残したことがないかどうか過去を顧みて、未来に備えましょう。今月もご支援、お力添えよろしくお願い致します。
私の履歴書
2019.10.01

その人は数ヶ月前より、いつもよく来ていたゴルフの競技に来なくなった。80歳を超えていた。分け隔てのない人で、気さくで、気取らず、誰にも好かれていた。会社が大きくなったのは義理の息子のおかげやと、いつも感謝し、決して自慢をしなかった。その人が亡くなったと最近聞いた。その人はある大きなクリーニング会社の会長で、満州出身であった。日本が戦争に敗れ、満州から引き揚げてきたが、先に子どもだけが帰ってきた。残された母親はロシア軍が攻めてくることを恐れ、現地で自決した。父親は日本に帰ったが、若くして亡くなった。天涯孤独になったその人は親戚に預けられ、小さい時に、クリーニング店に奉公に出された。どれほど厳しい環境の下で働いたのか分からないが、21歳の昭和30年(1955年)頃、独立した。それからの話は分からない。そんなに早く亡くなるのであれば、もっと聞いておきたかった。しかしそれ以降も劣悪な環境の中でがむしゃらに働いたに違いない。今は立派で、地位も名誉もある立場だったが、私はその先輩に失礼ながら、若い時は本当にご苦労されたのですねと何回か言ったことがある。実際には私が想像する以上に辛酸を嘗め尽くした生活を送ったかもしれない。おしんのヤオハンや赤福の女将の物語はテレビで報道され、ドラマ化されて、世界中で感動を呼び起こしている。運命のいたずらの人もいるかもしれないが、大多数の人は努力と勤勉と忍耐と人に言えないような苦労で勝ち抜いてきた。勿論それだけの覚悟で努力してきても、成功の女神に見放された人もいる。いや、そのほうが多いだろう。成功し、立派になり、生存中は確かに注目を集めたとしても、やがて時代の流れと共に、過去になり、忘れ去られて行く。二代記憶に残ったとして、三代目は過去の栄光は消えているのが普通、というか、そんなに長い期間思い出が残っていると新しい出来事が入る余地がなくなってくる。昔はその家の悪い出来事は三代続くといわれたが、今や直ぐに人々の記憶の外に追いやられる。日経新聞やこんな出来事に触発されたわけでないが、そして又私には何の特筆すべきことがらもなく、まして褒章を受けたわけでもないが、この地の、そして何らかの参考になればと思い、何回かにわたって私の履歴書を書いてみたい。
1944年11月3日、太平洋戦争終戦の1年前の昭和19年、泉北郡美木多村大字上148番地で産婆さんに取り上げられた。私の家の上の147番地(美木多幼稚園の専用駐車場)には、防空壕(今は擁壁で無くなっている)があり、こんな田舎にも米軍のグラマン戦闘機が来たので、何回かそこに逃れたそうだ。父正計(初代理事長)は美木多村役場勤務で、その父正治は終戦前の官選の美木多村の村長であった。しかし戦後は公職を退き、一農民として、田畑を耕作し、ため池を守り、山林の保全に努めた。よく一緒に山に言って、適当な大きさの木を切り、家に持ち帰って、薪にした。ガスも水道もない時代であり、ご飯を炊くにも風呂を沸かすにも、全て薪であった。木を切っているおじいさんに、なぜ切り株に傷をつけるか聞いたことがあった。こうすれば、新しい芽が出て、又大きな木になると言った。その山は今庭代台になっている。この時代の交際範囲は狭かった。祖父と祖母は同じ美木多村の親族同士であった。祖父は村のため、祖母は祖父のために一生懸命であった。昔からだんじりがあった。美多彌神社の境内は今よりもっと下にあった。そして下から上がってきた道は神社で行き止まりであった。だんじりは7台あった。それが美多彌神社に登る道に並んだ。人は老若男女を問わず、私の家だけでなく、近所の家に集まって、食事を楽しみ、秋祭りを祝った。みんな一心同体であった。だんじりが止まった道は祖母にとってはモミを乾燥する最適の場所であった。朝からむしろを何枚も何枚も敷き、その上でモミを乾かした。1日に何回も籾を混ぜ、方向を変えた。夕方には籾を持ち帰った。ちょっとやそっとのモミの量ではなかった。4km以上はなれた別所等の遠い所の小学生は自転車通学をした。そのために家の門は自転車置き場になった。それが当たり前で、何の文句も意見もない鷹揚な時代であった。
いよいよ10月から幼児教育無償化が始まります。いろいろな意見がありますが前向きに取り組んでいきます。消費税も10%になりますが高額耐久商品は別として、大きな混乱は無いといわれています。そして10月1日は私達にとってとても大事な園児募集の日です。私達の今までの努力や成果が試されるときです。少子化と受け皿が多くなってきたことで、ますます保護者の厳しい評価を受けそうですが、どうか私達を信頼していただき、皆さんの温かいご支援、お力添え賜りますよう宜しくお願い致します。 神様全て出雲に行ってしまう神無月、今月も力を合わせて出発です。
尚、運動会にはご家族おそろいでお越しください。お待ちしています。
2019.10.01

その人は数ヶ月前より、いつもよく来ていたゴルフの競技に来なくなった。80歳を超えていた。分け隔てのない人で、気さくで、気取らず、誰にも好かれていた。会社が大きくなったのは義理の息子のおかげやと、いつも感謝し、決して自慢をしなかった。その人が亡くなったと最近聞いた。その人はある大きなクリーニング会社の会長で、満州出身であった。日本が戦争に敗れ、満州から引き揚げてきたが、先に子どもだけが帰ってきた。残された母親はロシア軍が攻めてくることを恐れ、現地で自決した。父親は日本に帰ったが、若くして亡くなった。天涯孤独になったその人は親戚に預けられ、小さい時に、クリーニング店に奉公に出された。どれほど厳しい環境の下で働いたのか分からないが、21歳の昭和30年(1955年)頃、独立した。それからの話は分からない。そんなに早く亡くなるのであれば、もっと聞いておきたかった。しかしそれ以降も劣悪な環境の中でがむしゃらに働いたに違いない。今は立派で、地位も名誉もある立場だったが、私はその先輩に失礼ながら、若い時は本当にご苦労されたのですねと何回か言ったことがある。実際には私が想像する以上に辛酸を嘗め尽くした生活を送ったかもしれない。おしんのヤオハンや赤福の女将の物語はテレビで報道され、ドラマ化されて、世界中で感動を呼び起こしている。運命のいたずらの人もいるかもしれないが、大多数の人は努力と勤勉と忍耐と人に言えないような苦労で勝ち抜いてきた。勿論それだけの覚悟で努力してきても、成功の女神に見放された人もいる。いや、そのほうが多いだろう。成功し、立派になり、生存中は確かに注目を集めたとしても、やがて時代の流れと共に、過去になり、忘れ去られて行く。二代記憶に残ったとして、三代目は過去の栄光は消えているのが普通、というか、そんなに長い期間思い出が残っていると新しい出来事が入る余地がなくなってくる。昔はその家の悪い出来事は三代続くといわれたが、今や直ぐに人々の記憶の外に追いやられる。日経新聞やこんな出来事に触発されたわけでないが、そして又私には何の特筆すべきことがらもなく、まして褒章を受けたわけでもないが、この地の、そして何らかの参考になればと思い、何回かにわたって私の履歴書を書いてみたい。
1944年11月3日、太平洋戦争終戦の1年前の昭和19年、泉北郡美木多村大字上148番地で産婆さんに取り上げられた。私の家の上の147番地(美木多幼稚園の専用駐車場)には、防空壕(今は擁壁で無くなっている)があり、こんな田舎にも米軍のグラマン戦闘機が来たので、何回かそこに逃れたそうだ。父正計(初代理事長)は美木多村役場勤務で、その父正治は終戦前の官選の美木多村の村長であった。しかし戦後は公職を退き、一農民として、田畑を耕作し、ため池を守り、山林の保全に努めた。よく一緒に山に言って、適当な大きさの木を切り、家に持ち帰って、薪にした。ガスも水道もない時代であり、ご飯を炊くにも風呂を沸かすにも、全て薪であった。木を切っているおじいさんに、なぜ切り株に傷をつけるか聞いたことがあった。こうすれば、新しい芽が出て、又大きな木になると言った。その山は今庭代台になっている。この時代の交際範囲は狭かった。祖父と祖母は同じ美木多村の親族同士であった。祖父は村のため、祖母は祖父のために一生懸命であった。昔からだんじりがあった。美多彌神社の境内は今よりもっと下にあった。そして下から上がってきた道は神社で行き止まりであった。だんじりは7台あった。それが美多彌神社に登る道に並んだ。人は老若男女を問わず、私の家だけでなく、近所の家に集まって、食事を楽しみ、秋祭りを祝った。みんな一心同体であった。だんじりが止まった道は祖母にとってはモミを乾燥する最適の場所であった。朝からむしろを何枚も何枚も敷き、その上でモミを乾かした。1日に何回も籾を混ぜ、方向を変えた。夕方には籾を持ち帰った。ちょっとやそっとのモミの量ではなかった。4km以上はなれた別所等の遠い所の小学生は自転車通学をした。そのために家の門は自転車置き場になった。それが当たり前で、何の文句も意見もない鷹揚な時代であった。
いよいよ10月から幼児教育無償化が始まります。いろいろな意見がありますが前向きに取り組んでいきます。消費税も10%になりますが高額耐久商品は別として、大きな混乱は無いといわれています。そして10月1日は私達にとってとても大事な園児募集の日です。私達の今までの努力や成果が試されるときです。少子化と受け皿が多くなってきたことで、ますます保護者の厳しい評価を受けそうですが、どうか私達を信頼していただき、皆さんの温かいご支援、お力添え賜りますよう宜しくお願い致します。 神様全て出雲に行ってしまう神無月、今月も力を合わせて出発です。
尚、運動会にはご家族おそろいでお越しください。お待ちしています。
知る喜び、知らない喜び、知らないでいる喜びと不幸
2019.09.01

私たちは膨大な情報の中で生きている。昔の人に比べるとその情報量は半端でない。 過去を知り、現在を生き、未来を思う私たち、そして所狭しと世界の端まで飛び交う数え切れないほどの航空機、宇宙から私たちを見つめ、監視している人工衛星群、そこからもたらされる信じられないくらいの情報、アフリカの片隅、南米アマゾン、果ては北極熊の生態まで、国内では昔は無視されていたような、そして知りたくもないような些末なニュースも大きく広がりを見せ、SNSを通じてさらに拡散し、NET難民の餌食にされ、攻撃の対象になってしまう。個人が裸にされ、個人情報保護法は意味を失いつつある。一人一人は善良な一市民であっても、素性が隠されると、牙をむくオオカミになるが、何かの拍子に実態が明かされると、小心者に還っていく。情報過多のこんな社会は果たして幸せだろうか。誰と誰が結婚しようが、離婚しようが、知らない遠い地域で強い風で倒れて軽い傷を負ったとかは私たちの日常生活に関係ないし、出歯亀趣味が私たちに幸福をもたらしてくれない。国内外で日本人が活躍したニュース等はリアルタイムに私たちに届いている。それは現在に住んでいる特典だと思うが、知りたくないニュースをさも仰々しく聞かされると、遠くても10km位のコミュニティーで生活していた昔の人がhappyだと思う。さて、私も70代真ん中、いつもこれが最後の旅と思いながら、航空券とホテルだけを予約して、今年も夏休みを利用して海外に出た。今まで行ったことのない都市が目的地。西ベルリンは東ドイツに高さ3mくらいの強固な壁で取り囲まれていた。その壁の象徴的なブランデンブルグ門は1989年12月の東独政府の崩壊とともに開かれた。しかし未だ西独と東独市民の間には意識の差があると報じられている。ソ連とアメリカの捕虜交換場所になったクロスポイント・チャーリーを見たかった。しかし今は観光地の一部に過ぎず、普通の街並みであり、映画で見たような感動はなかった。一番感動したのは世界最古のベルリンの動物園、広い敷地、よく整備された樹木の中にあるこの動物園はパンダを始め、様々な動物が住んでいて、ケージの中ではなく、あるがままの自然の中で生活していた。毎日が飛行機の駆け足旅行、エアポートからホテルまでの移動はタクシーに頼ったが、ストックホルムではタクシー乗り場に着くと、タクシードライバー達が手をあげた。どれも正規のタクシーだが、料金が違った。ガイドブックを見て、黄色のタクシーに乗った。降車の時に現金を渡したが釣りがないと言う。これも作戦だろうか。日本を出るとき、成田で5万円をユーロに替えた。しかし使ったのはドイツだけ。スエーデンに行くときに2万円をクローネに替えたが、無意味だった。デンマーク、ノルウエーも含めて、電車の切符、タクシー、レストランやデパートの支払い等は全てカードでOK、それぞれの通貨に替える必要は毛頭なかった。ストックホルムは顕著であったが、公共のトイレ(例えば飛行場)には男性が立って用を足す便器がない。場所によっては男女同じで、女性が出てきた後に男性が入っていった。飛行機で慣れているとは言え、男女平等のトイレは日本で普及するのだろうか。飛行機も男女別々のトイレを考えているのに。コペンハーゲンの人魚の像は予想外に小さかった。陸地近くの岩の上でこちらを向いた像は大方の期待を裏切るものかもしれないが、そこに来たという証になる。実業家が寄贈したこの像はあまり観光資源のないこの町にとっては、名前で有名なチボリ公園と同じくらい貴重な存在なのだろう。食器などが好きな人にとってはロイヤルコペンハーゲンの本拠地、工場や事務棟は高い煙突のある大きな建物であるが、今はほとんど人気がない。端の方でOUTLETの食器などを売っているだけ。実際はほとんど東南アジアで作られている。この北欧三カ国でオスロは一番印象に残った。この町は飛行場から約50km、タクシー代が高かったのでびっくりした。しかしここは静かな落ち着いた王国であり、少し前に銃撃事件があったとは信じられない。女性はほとんどブロンドかプラチナブロンドで、黒髪の人はほとんどいないし貴重な存在。思い出に、縦横無尽に走る地下鉄に乗って、ムンク美術館に行った。朝早いせいかあまり混んでいなかった。よく目にする「叫び」と「マドンナ」を間近で見ることが出来た。やはり良いものは良い。実感であった。昼は港まで歩いて、少しリッチそうなレストランに入った。新鮮な魚介類やロブスターが豊富だった。来るときのタクシー代に懲りて、帰りは列車で飛行場に向かった。地下の駅から乗って空港へ、乗り心地の良い高速列車で20分たらずで到着した。費用もタクシーの六分の一位であった。この三カ国はそれぞれ飛行機で1時間くらい、通貨はそれぞれ異なるが、全てクローネであった。そして気温もよく似ていて、日本が35℃を越えているときに、20℃余りであった。いつまでも好奇心と知識欲をを持ち続けたいと思う。
園児募集のお願い
来年度の園児募集は9月1日より願書配布、10月1日より受付となっています。「三つ子の魂百まで」のまさに正鵠を得たことわざのように、3歳児からの保育の重要性を十分認識し、真摯に幼児教育に取り組んで参ります。そして幼稚園に通園させてよかったと笑顔で言ってもらえるように教職員一同力を合わせて頑張ります。どうぞご近所、お知り合いの方にもお勧めいただきますようお願いいたします。9月、長月、食欲とスポーツの秋、明るい未来を目指して、今月も出発です。
2019.09.01

私たちは膨大な情報の中で生きている。昔の人に比べるとその情報量は半端でない。 過去を知り、現在を生き、未来を思う私たち、そして所狭しと世界の端まで飛び交う数え切れないほどの航空機、宇宙から私たちを見つめ、監視している人工衛星群、そこからもたらされる信じられないくらいの情報、アフリカの片隅、南米アマゾン、果ては北極熊の生態まで、国内では昔は無視されていたような、そして知りたくもないような些末なニュースも大きく広がりを見せ、SNSを通じてさらに拡散し、NET難民の餌食にされ、攻撃の対象になってしまう。個人が裸にされ、個人情報保護法は意味を失いつつある。一人一人は善良な一市民であっても、素性が隠されると、牙をむくオオカミになるが、何かの拍子に実態が明かされると、小心者に還っていく。情報過多のこんな社会は果たして幸せだろうか。誰と誰が結婚しようが、離婚しようが、知らない遠い地域で強い風で倒れて軽い傷を負ったとかは私たちの日常生活に関係ないし、出歯亀趣味が私たちに幸福をもたらしてくれない。国内外で日本人が活躍したニュース等はリアルタイムに私たちに届いている。それは現在に住んでいる特典だと思うが、知りたくないニュースをさも仰々しく聞かされると、遠くても10km位のコミュニティーで生活していた昔の人がhappyだと思う。さて、私も70代真ん中、いつもこれが最後の旅と思いながら、航空券とホテルだけを予約して、今年も夏休みを利用して海外に出た。今まで行ったことのない都市が目的地。西ベルリンは東ドイツに高さ3mくらいの強固な壁で取り囲まれていた。その壁の象徴的なブランデンブルグ門は1989年12月の東独政府の崩壊とともに開かれた。しかし未だ西独と東独市民の間には意識の差があると報じられている。ソ連とアメリカの捕虜交換場所になったクロスポイント・チャーリーを見たかった。しかし今は観光地の一部に過ぎず、普通の街並みであり、映画で見たような感動はなかった。一番感動したのは世界最古のベルリンの動物園、広い敷地、よく整備された樹木の中にあるこの動物園はパンダを始め、様々な動物が住んでいて、ケージの中ではなく、あるがままの自然の中で生活していた。毎日が飛行機の駆け足旅行、エアポートからホテルまでの移動はタクシーに頼ったが、ストックホルムではタクシー乗り場に着くと、タクシードライバー達が手をあげた。どれも正規のタクシーだが、料金が違った。ガイドブックを見て、黄色のタクシーに乗った。降車の時に現金を渡したが釣りがないと言う。これも作戦だろうか。日本を出るとき、成田で5万円をユーロに替えた。しかし使ったのはドイツだけ。スエーデンに行くときに2万円をクローネに替えたが、無意味だった。デンマーク、ノルウエーも含めて、電車の切符、タクシー、レストランやデパートの支払い等は全てカードでOK、それぞれの通貨に替える必要は毛頭なかった。ストックホルムは顕著であったが、公共のトイレ(例えば飛行場)には男性が立って用を足す便器がない。場所によっては男女同じで、女性が出てきた後に男性が入っていった。飛行機で慣れているとは言え、男女平等のトイレは日本で普及するのだろうか。飛行機も男女別々のトイレを考えているのに。コペンハーゲンの人魚の像は予想外に小さかった。陸地近くの岩の上でこちらを向いた像は大方の期待を裏切るものかもしれないが、そこに来たという証になる。実業家が寄贈したこの像はあまり観光資源のないこの町にとっては、名前で有名なチボリ公園と同じくらい貴重な存在なのだろう。食器などが好きな人にとってはロイヤルコペンハーゲンの本拠地、工場や事務棟は高い煙突のある大きな建物であるが、今はほとんど人気がない。端の方でOUTLETの食器などを売っているだけ。実際はほとんど東南アジアで作られている。この北欧三カ国でオスロは一番印象に残った。この町は飛行場から約50km、タクシー代が高かったのでびっくりした。しかしここは静かな落ち着いた王国であり、少し前に銃撃事件があったとは信じられない。女性はほとんどブロンドかプラチナブロンドで、黒髪の人はほとんどいないし貴重な存在。思い出に、縦横無尽に走る地下鉄に乗って、ムンク美術館に行った。朝早いせいかあまり混んでいなかった。よく目にする「叫び」と「マドンナ」を間近で見ることが出来た。やはり良いものは良い。実感であった。昼は港まで歩いて、少しリッチそうなレストランに入った。新鮮な魚介類やロブスターが豊富だった。来るときのタクシー代に懲りて、帰りは列車で飛行場に向かった。地下の駅から乗って空港へ、乗り心地の良い高速列車で20分たらずで到着した。費用もタクシーの六分の一位であった。この三カ国はそれぞれ飛行機で1時間くらい、通貨はそれぞれ異なるが、全てクローネであった。そして気温もよく似ていて、日本が35℃を越えているときに、20℃余りであった。いつまでも好奇心と知識欲をを持ち続けたいと思う。
園児募集のお願い
来年度の園児募集は9月1日より願書配布、10月1日より受付となっています。「三つ子の魂百まで」のまさに正鵠を得たことわざのように、3歳児からの保育の重要性を十分認識し、真摯に幼児教育に取り組んで参ります。そして幼稚園に通園させてよかったと笑顔で言ってもらえるように教職員一同力を合わせて頑張ります。どうぞご近所、お知り合いの方にもお勧めいただきますようお願いいたします。9月、長月、食欲とスポーツの秋、明るい未来を目指して、今月も出発です。