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論理的と情緒的

2017.12.01


10年少し前だろうか、日系人の従妹の結婚式に招かれてサン・フランシスコに行った。彼女はハーバード大学出身の弁護士であったが、そのスピーチに誰もがほめたたえた。それはなぜか。論点、話題を整理し、参列している人に納得のいく、理解しやすい話し方を、冗長でなく、手短に論理的にしたからであった。彼女にとっては高校や大学を通じて、身に着いたアメリカ流の合理的・論理的な当たり前の話し方をしただけであったのだが、参列者はそうは思わなかった。翻って、私たち日本人は一般的に感覚的、情緒的な話し方をする。私も人の前で話す時ですら、次々に頭に浮かぶ言葉を順番に無作為に発言していく。決して論理的でなく起承転結もない。昔よく海外から帰ってきた人は合理的、自己中心的で、人のことをよく考えない発言をすると言って、少なからず不遇の状態に置かれた人もいた。海外で活躍し、おおいに会社に貢献したのに、日本に帰ったら報われない。その為に海外に駐在で赴任したがらない人も増えたこともあった。しかし今はグローバルの時代、こんなことは昔の事と言って、どこの会社も笑っているかもしれない。西欧流の合理的・論理的な方法が感覚的・情緒的な考え方よりも優れていると言っているのではない。海外では論理的・法律的に相手を徹底的に打ち負かさなければ、打ち負かされる世界なのだ。日本も専門職や海外営業マンを中心にそのような筋道の通った論理的な思考をする人も増えてきているとはいえ、まだまだ少数派だ。「相手を傷つけない」「和をもって貴し」「相手の逃げ道を作ってやる」「思いやる心」は私たち日本人が過去から受け継いできた美徳だ。それを逆手にとって、卑劣な犯罪をする者も増えたが、昔の家中心の村社会では考えられない事だ。最近私の青春時代の曲をたくさん聞く機会があった。昔はそんなものかと口ずさんでいたが、歌詞をよく見てみると、感覚に訴える情緒的な言葉が多い。例えば中森明菜のセカンドラブ「切なさがクロスするさようならに」「切なさのスピードが高まってとまどう」卒業写真の「人ごみに流されて変わってゆく私」木綿のハンカチーフ「ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」秋桜「薄紅の秋桜が秋の日の何気ない陽溜りに揺れている」きみの朝「別れようとする魂と出会おうとする魂と」恋に落ちて「吐息を白いバラに変えて」いい日旅立ち「あー日本のどこかに私を待っている人がいる。いい日旅立ち、夕焼けを探しに」季節の中で「うつむきかけたあなたの前を静かに時は流れ」なごり雪「なごり雪も降る時を知り、ふざけすぎた季節のあとで」カモメはカモメ「この海を失くしてでもほしい愛はあるけれど かもめはかもめ ひとりで海をゆくのが お似合い」聖母たちのララバイ「この都会は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士」昴「目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ」誰もいない海「わたしは忘れない 海に約束したから」精霊流し「せんこう花火が見えますか 空の上から」花嫁「花嫁衣裳はふるさとの丘に咲いた野菊の花束」安奈「安奈 おまえの愛の灯はまだ燃えているかい」ルビーの指環「くもり硝子の向こうは風の町、問わず語りの心が切ないね」シクラメンのかほり「季節が頬をそめて過ぎてゆきました」心もよう「黒いインキがきれいでしょう 青い便せんが悲しいでしょう」恋の予感「夜は気ままに あなたを踊らせるだけ ただかけぬけるだけ」夢の途中「さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」贈る言葉「悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣く方がいい」長い夜「長い夜を飛び越えてみたい おまえだけにこの愛を誓う」太陽がくれた季節「君は何を今見つめているの 若い悲しみに濡れた眸で」
先日雨が激しく降る阪和自動車道下り線を比較的高速で走っていた。重心が低い四輪駆動の乗用車であった。右に料金所を見ながら左に少しカーブした所で、急に大きな横滑り、左の車線に急激に移動、ハンドルが咄嗟のことできかない。初めての経験で、一瞬何が起こったのかわからない。幸い横に車はいなかった。最悪、横のガードレールに接触を覚悟したが、ハンドルを真っ直ぐしっかり握っていたのが良かったのか、少しして体勢を立て直すことが出来た。何秒間の出来事が何時間も続いたように思えた。ハイドロプレーン、50年以上前に、名神高速道路の誕生と共に生まれたこの言葉をよく知っていたが、その時よりもはるかに進化した今では死語と考えていた。過信が招いた出来事であった。この現象を避けるために、タイヤ会社は水を逃げやすくする設計をしていた。しかし私の車がはいていたタイヤは晴れ用タイヤで溝が殆どなかった。考えればスリップは当たり前だった。雨の日の慎重運転を思い切り知らされた。ある意味高速道路では視野角度も狭くなるが、低速では左右を見る余裕も生まれる。今まで見えなかったものがどんどん目に飛び込んでくるのだから、他人の迷惑にならない限り、低速ドライブもたまには結構いいものだと思う。
師走、12月、2017年、平成29年もいよいよ終わりです。この1年間、時には暖かいお言葉、時には厳しい叱咤激励を頂きました。皆様方の励ましのお言葉をかみしめながら2018年、平成30年も子どもたちの生長を期待して活動をしてまいります。どうぞ今後ともご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

食材と温泉 大分県

2017.11.01
食材と温泉 大分県

 その船は19時05分きっかりに出航した。今まで船とは縁がなかった。その船は大きかった。フェリーであった。今まで何回かフェリーに乗ったが、これほど大きいフェリーは初めてであった。夜の大阪南港第1フェリーターミナル、車の種類や長さを伝えて切符を買った。行先は大分県別府フェリーターミナルであった。その船の名前はサンフラワー(ヒマワリ)であった。瀬戸内海を通って別府まで約12時間弱であった。車を乗せていない乗客も多数いた。九州に行くのには新幹線か飛行機だけだと思っていたが、こういうルートがあることに初めて気づいた。私は1回だけこの航路を経験したことがあった。55年程前の高校生の修学旅行であった。大阪には天保山という港があった。そこから関西汽船が出ていた。ワクワクする九州への修学旅行の起点であった。そこから関西汽船が出ていた。どんな船だったのか今はもう覚えていないが、外国人が珍しく船内にいて、場所を聞かれて頓珍漢な答えをしただけは鮮明に今でも覚えている。上陸した後は別府温泉の地獄めぐりをし、観光バスで阿蘇山に行き、その後長崎まで行って、列車で堺に帰ってきた。道は狭く、舗装してなくて、前のバスの土ほこりが容赦なくクーラーのない私たちの観光バスに侵入した。今だったら耐えられないだろうが、当時はそんなものと思っていた。それからの55年、瀬戸内海を通過したことが無かった。そのサンフラワーには大きな浴場があった。個室もあり、ベッドもあった。食事はバイキング形式であった。フェリーが出帆して1時間、船長は明石大橋の真下を通ると放送した。2日後にこの上を通るとは思っていなかった。今年33回目を迎えた全日本私立幼稚園連合会設置者・園長全国研修大会への参加であった。今年の参加者は500名余り、日本全国から集まった。私もそのうちの1人であった。いつもそうだが、文科省の役人の意見を直接聞きたかった。少しでも私たちの幼稚園に役立つ情報を持って帰れたらという思いでもう何回も何回も参加してきた。内海のせいか、又はフェリーが大きいせいかほとんど揺れることもなく、定刻少し前の7時頃に目的の別府港に着岸した。小雨が降っていた。会場は大分市のオアシスタワーホテルで、受付は12時からであった。5時間あった。ふと思いついたのが関アジ、関サバで有名な、そして学校時代に地理で勉強した製錬所のある佐賀関であった。ナビで教えられた道は朝8時頃のせいか、渋滞の連続であった。やっと着いたが、選挙運動の真最中、有力E議員の選挙カーに何回もであった。半島を少し回ったところに漁港があり、たくさんの漁船が係留されていた。雨で漁に出なかったのか、既に漁から帰ってきたのだろうか。改装中の魚の直売所の建物があった。職員は、今日生魚は入荷していないと言った。ふと建物を見ると、「平成22年度種子島周辺漁業対策補助金」と記されていた。ここは大分県、種子島周辺と言えるのかなと思ったりもした。ここの製錬所の建物は大きかったがそれにもまして、標高132mの丘の上に建てられた高さ200mの巨大煙突にはびっくりした。煙害防止だそうだが、この日は雨空で、煙突の先は雲の中に隠れていた。大分市はこんなに建物がたくさんあり、大きくてきれいな町とは想像していなかった。よく地方再生と言うが、地方の町の方が立派で綺麗で豊かでないのかと考えたりした。初めに連合会の会長は、幼稚園は原点に戻らなければいけない。少子化とか、国の補助金も大切だが、幼児を立派に教育し、小学校につなげていく幼稚園本来の役割を愚直に実行していくべきだと言った。私もまったく同感だと思った。次に長州藩の末裔で、別府でピアニストとして活躍する伊藤京子さんがグランドピアノを時には弾きながら講演をした。その中で心に残っていることは「演奏方法はいろいろあってもよいが、その曲がどのようにしてできたか、作曲家の意図を十分伝えるようにピアニストは演奏しなければいけない。例えばショパンの「革命」の曲は作曲がどのような状況下で書いたかを知らねばならない。ただ楽譜に忠実に演奏しているだけではだめなのです」と言ったことです。昔現地で聞いたタンゴ歌手の藤沢蘭子さんがアルゼンチンの人に「歌は素晴らしいが、何か心に響くものがない」と言われた事と同じなのかも。文科省の課長は幼稚園教育の無償化を進めていて、誰も収入に関係なく、幼稚園に行かせることが出来るように保護者にはその保証をする事と不足する0~2歳児の施設の中で、幼稚園で2歳児を積極的に受け入れることが出来るように対策を考えている、それに来年4月からは幼稚園指導要領が変わるので、その内容と対応などについて話された。最後に危機管理の観点から講演があった。事故は事故が起きるように行動している。たまたまはない。起きたことはしっかりと受け止め、明日は我が身と考える。後悔先に立たず、をしっかり肝に銘じる。事故は0~4歳児が多く、5歳児になると減る。最後に幼稚園は小さいお子様をお預かりしているのだから、毎日何も起こらないのは奇跡である。奇跡が続くように頑張って行こうと言われた。帰りは別府港から愛媛県佐田岬の付け根の八幡浜港をフェリーで目指した。89km、2時間30分。高い煙突が見える佐賀関までは海は穏やかであったが、豊後水道に入るや否やその高さが2m以上と思われる激しい波が船にぶつかり、しぶきが甲板に飛び散った。四国の高速道路、鳴門大橋、明石大橋、神明道路、阪神高速を経由して堺に帰ってきた。八幡浜から400kあまり、まだ返納は大丈夫かなと一人考えていた。 さて今月もみかん狩りや作品展、その他いろいろな行事が待っています。元気に取り組んでまいります。厚かましいですが、ご支援、お力添えよろしくお願い申し上げます。

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研修大会

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別府鉄輪温泉

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漁港と高い煙突

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宇和島フェリー

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豊後水道通過

消えつつある言語

2017.10.01


お母さん、「おんなもんべつ」と書いているよ。賢そうな小学生の女の子が横にいる母親に「難しい漢字も読めるようになった」と言うことを暗示するように小さな声でつぶやいた。それはめまんべつと読むのよ。優しい声で答えた。伊丹空港を離陸して約2時間、JAL機は北海道東部、網走市近くの女満別空港に満員の乗客を乗せて着陸した。8月下旬、この便は明日で運航を終える。それ以降女満別に大阪から行くには、札幌か東京経由しかフライトがない。最後の激安便であった。今から50年以上前の大学3年生の時に友達3人と北海道のこの地域にやってきた。カニ族?と呼ばれた。荷物を一杯詰め込んだリュックを背負って汽車やバス、ヒッチハイクで北海道中を旅することが流行であった。そのほとんどがユースホステルに泊まった。一方では学生運動がまっただ中であり、一方ではリュックを背負っての観光であった。グループでの旅であった。行程は自分たちで決めていくのだが、そんなに沢山ルートがあるわけでなかった。ある場所で知り合い、別れ、又ある交通機関で知り合い、別れ、又出会うということが多かった。そこでは友情が芽生え、他大学を知り、ロマンも生まれることがあった。沢山歩いて、疲れることもあったが、体力の方が勝った。青春の1ページであり、ほろ苦い経験でもあった。函館に帰る汽車はトンネルが多く、機関車の煙で真っ黒になった。彫りの深い妙齢の女性に函館に着いたら、「お風呂にご案内しましょうか」と言われてみんな喜んだことも旅の思い出だ。青函連絡船の上では何回か出会った福井大学のグループに又会った。青森に着くまでずっと話をしていたのを憶えている。青森から急行「日本海」で無事大阪に帰ってきた。時間に無限の余裕があった青春物語であった。それから50年あまり、再びこの地域にやってきた。今度は汽車でなく飛行機で。この地で印象に残っているのは2カ所。美幌峠から見下ろす屈斜路湖の美しい景観であり、もう一つは2度行った摩周湖で会った。1度目は霧で覆われ、何も見えなかった。しかし麓の町まで帰ってきて、ふと後ろを眺めると、霧が消えていた。急いで引き返し、崖を下って、水辺まで行った。摩周湖の美しさと水の透明さを実感した。あのとき沢山撮った写真はどこへ行ったのだろうか。今回も美幌峠は晴天であった。摩周湖までレンタカーで行ったが、その自然の美しさ、神秘さを堪能してくれと言わんばかりの姿で歓迎してくれた。西にハンドルを切って阿寒湖を目指した。鶴雅別荘鄙の座で見たアイヌ人彫刻家藤戸竹喜氏の熊の木彫りに大きな感動を覚えた。繊細なタッチ、それでいて大胆な一刀彫りの彫刻は私の心に大きく響くものがあった。近くに藤戸氏の店があった。彼の作品は地下に展示されていた。多くは非売品であったが、気に入った熊の小品を分けていただいた。同じような作家で、最近亡くなられた瀧口政満氏の作品も素晴らしいという意外に言葉が見つからなかった。アイヌのことはほとんど知識がない。しかし、コタン(集落)、カムイ(神)、イヨマンテ(熊祭)、ユーカラ(叙事詩)、ラッコ、トナカイ等の言葉は私たちの中に根を下ろしている。金田一京助教授によって再び見いだされたアイヌの言語、言葉、詩、伝説、説話、等々は日本民族との同化政策によって、失われつつある。又その言語も今は語る人も限られ、消えつつあるという悲しい運命に翻弄されている。しかしその源は今でも北海道の各地で受け継がれ、名前を残し、誇り高い民族の矜持を保っている。




アイヌ人彫刻家 藤戸竹喜氏 熊の木彫り

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